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梅雨の最中の6月25日~26日、山はやめて房総半島を巡りました。廻ったところは大多喜町、勝浦、養老渓谷。天気は25日は曇り、26日は雨/小雨/曇りで、まずまずでした。

大多喜町

大多喜小学校「房総の小江戸」といわれる千葉県夷隅郡大多喜町。いすみ鉄道大多喜駅前の観光案内所(垂れ幕には観光本陣と書かれている)を起点に、昔の風情を残す街並みを歩く。
大多喜小学校(写真→):四角錐の屋根をもつ校舎と時計がついた塔、ユニークだが洒落た作りの小学校。県建築文化賞を受賞したのもうなずける。背景の大多喜城もよくマッチしている。
カレイ夷隅神社夷隅神社(写真→):由来を記したパネルに『祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)、草創は不明だが、社伝に長久二年(1041)に再建、天正十五年(1587)に里見氏の将・正木大膳亮(時堯)が再築したとある・・・むかし牛頭天王宮(ごずてんのうぐう)と称し、明治の初めに夷隅神社と改号して・・・社殿は権現造り・・・それぞれの擬宝珠(ぎぼし)の銘から、本殿は貞享五年(1688)、拝殿は文政十二年(1829)の建造と考えられる・・・』とありました。
境内では朝市が開かれていた。見事なカレイも売っていました)。横浜への帰路途中なら、買っていたところです。市は"5"と"0"の日開かれる由。

大屋旅館豊乃鶴酒造大家旅館(←写真):夷隅神社の鳥居わきにある。創業は江戸後期。池内紀さんは『なぜかいい町一泊旅行』の中で、「これ一つで(大多喜は)すでに小江戸の貫録十分である」と書いています。一度泊まってみたいものだ。
豊乃鶴酒造(←写真):メーンストリート「城下町通り」を鉤の手に曲がったところにある。江戸天明年間(1781~1789)創業。大家旅館とともに建物は登録有形文化財、お酒も旨いらしい(平成18年19年金賞受賞)。

渡辺家ツバメ釜屋大多喜は“古い(ホントの)江戸”と“新しい江戸”が混在。セブンイレブンなど例外はあるが、現代の建物の多くは江戸の雰囲気を壊さないよう、外観を作っている。また街じゅう至るところ、ツバメが飛び交い、アチコチの巣では子育ての真っ最中であった。
写真は“ホント”の江戸の代表例、釜屋(左)と渡辺家(右)。釜屋は明治初期建築の土蔵づくりの商家。大多喜藩の御用金御用達をまかなった豪商渡辺家は江戸末期の建築で、国指定重要文化財。

中心街を離れ、線路を越えて大多喜城へ。(観光本陣からおよそ1㌔)
踏切を渡ると、川に沿った坂道を歩く。川の名は御禁止川(おとめがわ)、道の名はメキシコ通り。左手の川の流れは渓流風で両岸の緑が美しく、右手もまた城址との森がこんもり。そして、通り入口に「太陽の塔」が立ち、歩道には民族風模様のタイルがはめ込まれている。気持ちよく愉快な通りだ。
メキシコ通り御禁止川御禁止川:夷隅川と同じ流れであるが、お城の前は御禁止川という別名がある。昔禁漁区であったことに由来。参勤交代のときに、御禁止川の名産「むらさき鯉」を檜のたらい入れ、生きたまま将軍家に献上したそうです。
メキシコ通り:名前の由来は・・・慶長十四年(1609)、当時スペイン領であったフィリピン総督ドン・ロドリーゴの船がメキシコへ帰る途中に遭難し、上総国夷隅の浜で助けられた。ときの大多喜城主本多忠朝(藩祖忠勝の次男)は異国人禁令にもかかわらず手厚くもてなし、翌年の無事帰国の手助けをした。スペイン・メキシコの人々はその恩義を忘れず、メキシコ大統領が 昭和53年(1978) 大多喜町を訪れ、感謝を述べた。それを記念して通りを改修し、メキシコ通りと命名した。

大多喜城薬医門大多喜城天守閣:(←写真)本丸跡に昭和50年(1975)復元。内部は博物館(県中央博物館大多喜城分館)になっている。資料によれば、上総武田氏が「小田喜城」として築城(16世紀代)、以後、正木氏の支配が4代続くが、4代目正木時堯(夷隅神社を再築)は里見氏の出。豊臣秀吉の命によって上総国は里見氏から徳川家康の支配に変わる。ここから“房総の小江戸”たる大多喜の歴史が始まる。家康は安房・里見氏に対する備えに、四天王の一人本多忠勝を十万石でこの地に封じた(1590年)。忠勝は「大多喜城」として城を大改築し、城のまわりを整備した。ために大多喜城は本多忠勝の築城と記した資料が多い。忠勝は11年居城し、伊勢国桑名城に移った。本多氏3代のあと(~1617年)は、阿倍氏などさまざまな氏が大多喜藩を治めたが、軍事的重要性が薄れるつれ録高は減少、明治維新のときはわずか2万石であった。
薬医門:(写真)大多喜城内建造物唯一の遺構。天保十三年(1842)の火災後に建築された二の丸御殿の門。このときの火災で天守閣も焼失している。明治4年の廃藩のさいに、城山水道の開鑿に功があった小高半左衛門に払い下げられたが、大正15年、その曾孫の小高達也氏より、大多喜高校(当時中学)の校門として寄贈された由。二の丸跡に建つ大多喜高校の校内には、忠勝が掘った現存城内井戸日本一の大井戸もありました。


勝浦~灯台・官軍塚・八幡岬

私たち夫婦の旅の行先では、むしろ日本海を見ることは多いが、太平洋を“直に”見ることはまれ、この機会に大多喜から勝浦に向かいました。
勝浦灯台官軍塚勝浦市街に入って、カーナビが役に立たず、ともかく“海”を目指す。トンネル手前で狭い急坂を上ると、道幅が広くなり、まもなく待望の太平洋が見えてきた。道路わきに車をおいて、まずは勝浦灯台(写真←)を見物。構内は立入り禁止。
ついで、散歩中のご婦人が勧めてくれた官軍塚へ徒歩で往復。灯台から1㌔ほど。官軍塚は海からすこし離れており、周囲はよく整備されている(写真)。函館五稜郭に立てこもった榎本武揚の平定に官軍(津軽藩)の援軍(350人、熊本藩)が川津沖で難破し多くの犠牲者(130人)を出した。官軍塚はその遭難者を埋葬したものだそうです。ちなみに熊本は私のふるさとです。

八幡岬車に戻って急坂を戻り(下り)、トンネルをくぐったところが八幡岬公園の駐車場。階段を上ると、眼前に大海原がどこまでも続く。“外海”太平洋は存外おとなしかった。ここから見る勝浦灯台も絵になる(写真→)。公園の一角にお万の方像とお万の布ざらし由来がありました。後に徳川家康の側室となったお万の方は勝浦城主正木秀忠の姫君として生まれた。勝浦城(ここは勝浦城址)が落城したさい、幼い弟と母を連れ、岬の断崖に約40mの白い布を垂らして海に下り、小舟で館山へ逃れたという。その時、お万14歳、また水戸黄門こと水戸光圀はお万の方の孫だそうです。


養老渓谷~粟又の滝

再び大多喜街道(R297)を北上し、大多喜中心街の南のはずれで西進、養老渓谷に行く。養老渓谷については何の予備知識もなかったが、粟又の滝が最大であることを現地情報で知り、とりあえずそこへ向かった。
粟又の滝(下)粟又の滝(上)管理人不在の“有料”駐車場に車をおき、滝へ降りる。粟又の滝は房総一の名瀑布といわれるだけに なかなか 見事な滝だった。
岩肌を滑るように流れてきた水は、大きな岩に遮られて二つに分かれ(写真左)、再び一つになり、落差20mほどを駆け下る(写真右)。規模ははるかに小さいが、周りに豊かな自然を残す粟又の滝は、日光竜頭の滝より好きである。
ここから養老川に沿って小沢又の滝まで、約2㌔の遊歩道がついているが、雨の中、粟又の滝に降りるだけでも難儀したので、それは次の楽しみにした。
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瑞牆山(6月13日)

富士見平瑞牆山瑞牆山荘から100㍍ほど入った林道ゲート前に駐車場に車をおき、8時30分出発。駐車場は100台ほども収容できる広さ、林道は一般車通行止め。
林道を一度横切り、ジグザグの急坂を尾根に上がると、岩峰がそそり立つ特徴ある瑞牆山の頂きが木々の隙間から見えるようになった。陽射しを浴びて輝くミズナラの新緑が美しい。図鑑によれば、ミズナラの芽吹きは他の木より遅いとある。登山口から50分ほどで富士見平到着。
富士見平には小屋(富士見平小屋)が建っている。小屋の前をまっすぐ進めば、およそ3時間で金峰山、瑞牆山へは左に折れ、小屋を横を裏手へ行く。約2時間の行程である。
ミズナラ天鳥川山腹に“トラバース的に”つけられた道は、まもなく天鳥川(てんちょうがわ)へ大きく下降し、流れが岩を洗う程度の“川”というより“沢”を渡る。(9:48) ※瑞牆山は2004年3月についで2度目。その時の記録には「木の橋を渡って」とある。豪雨か何かで流れてしまったのだろうか? 写真の奥が富士見平側、手前が瑞牆山側。

天鳥川を渡ったあと道が険しくなった。ところどころ、大きな石や張り出した木の根っこが行く手を阻む。設置されたロープや梯子、木の枝をつかんで、短いコンパスを補う。深い緑の樹林の中に点々と咲いているピンクのシャクナゲが、苦しい登りを癒してくれる。蕾は真赤。シャクナゲの花道は頂上まで続いていた。
巨大な岩(大ヤスリ岩)の下を右へ回り込む形で半周し、11時40分、標高2230mの山頂に着いた。補食休憩を含み、富士見平から2時間20分であった。山頂は一転、360度の大展望。昼近く、ガスがだいぶんかかってはきたものの、梅雨の晴れ間としては贅沢なパノラマを楽しむ。
写真左から・・・○八ヶ岳連峰、真中が主峰赤岳 ○南アルプス、甲斐駒ヶ岳(右)と中央奥はたぶん仙丈ヶ岳 ○南アルプス、白峰三山(奥、右から北岳・間ノ岳・農鳥岳)と鳳凰三山(手前) ○富士山、ほとんど消えそうになっていました ○お隣りの金峰山(尖がりは五丈岩)と左奥は国師ヶ岳
八ヶ岳甲斐駒北岳富士山金峰山

瑞牆山右の写真は瑞牆山頂から東南方向(金峰山)を見下ろしたもの。なかほど森が切れている中ほどの“ズジ”がたぶん天鳥川だと思います。
1時間ほど山頂にいて、往路を下山。天鳥川出合(13:50-14:05)、富士見平(14:35-14:50)で、それぞれ休憩し、登山口に15時30分戻った。

ミズナラミズナラシャクナゲシャクナゲ増富ラジウム鉱泉の湯に浸かりながら、明日の行動を考える。梅雨の中休みは明日も続きそう。塩山へまわって大弛峠から金峰山? 甲斐駒前衛の日向山? 金峰山は瑞牆山荘~富士見平コースを登りたい。日向山は2度登っている。
日本一、二厳しいといわれる甲斐駒の黒戸尾根とはどんなところか、その“さわり”を歩いてみることに決め、道の駅「はくしゅう」に向かった。


甲斐駒・黒戸尾根 (6月14日)

黒戸尾根1吊橋朝7時50分の竹宇(ちくう)駒ヶ岳神社駐車場には、すでに多くの車が駐まっていた。早朝、甲斐駒に向かった、あるいはすでに山に入っている登山者の車であろう。
出発は8時ちょうど。神社の横から尾白川にかかる吊橋を渡ると、すぐ山腹を尾根に上がる[十二曲がり]と称する急坂となった。途中2度、尾白川渓谷への道を右に分け、“12回以上”ジグザグを繰り返し、最後は山腹を左へ大きくトラバースして、黒戸尾根の末端に取りついた。
黒戸尾根2甲斐駒ヶ岳尾根の上はあんがい広く、道は稜線上にあったり、尾根の右や左を巻いている。鬱蒼とした樹林帯の中を、ほぼ同じ勾配が延々と続く。予想したとおり、厳しいが味わいのある尾根だ。ところどころ風の通り道がある。谷から吹き上げてくる涼風がたいへん心地よい。瑞牆山ではバテ気味だった妻も、昨夜タップリ寝たせいか、今日は元気だ。
尾根を右にまわりこんだところで、木立の隙間から甲斐駒の山頂が見えた。頂上に登る気力・体力はもとよりないが、甲斐駒ははるか遠い。

笹の平勾配がいくぶん緩やかになり笹の平分岐点、10時40分。ここで横手駒ヶ岳神社から上がってきた道と合流する。道標に「甲斐駒ヶ岳7時間」とある。7時間は無理だが、1時間ぐらいはまだ歩けそう。先へ進む。黒戸尾根3黒戸尾根4
高度が上がり、木立が低く密度も薄くなったからであろう、地面まで陽射しが届いている。昼食を摂った地点から10分ほどのところに、開けた台地があった。『駒ヶ岳□□龍神』と書かれた古い石碑が建っている。□□は読めない。次回はここが休憩ポイントである。
そこを過ぎると、[八丁登り]といわれる急坂、尾根も細くなってきた。八丁登りを二、三丁登った、スントの高度計が示す1750m地点、駒ヶ岳神社から約1000m登った地点が今日のゴールとなった。三合目と四合目の中間あたりであろう。黒戸尾根の“真髄”はこの先である。

昨日は、登りも降りも頂上でもたくさんの登山客がいたが、今日は単独の中高年登山者と、トレーニングであろうかランニング登山の若者3人だけ。
尾白川帰路は熊鈴をつけた。人気がなかったことと、朝、登山道に倒れている子鹿を見たからである。クマがそれをかぎつけているかもしれない。子鹿は朝と変わらぬ状態で、そこに“いた”。まだ赤ちゃんである。死んでそれほど日時が経っていないようで、毛並みもまだきれいである。朽ちる前に、クマかキツネが食べてくれたらと願いつつ、そばを通り過ぎた。
再び吊り橋を渡って、14時30分竹宇駒ヶ岳神社に戻る。駐車場には尾白川渓谷見物の車が加わり、満車に近い状態であった。尾白の湯で汗を流し、自宅へ帰った。
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