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 酒田は鳥海山の行き帰り、幾度となく来ていますが、食事や食糧調達がおもで、これまで じっくり “観光”したことはありませんでした。今回、1日半(12日午後と14日)、徒歩で自転車で、酒田の街をゆっくり見てまわりました。
 昨今の地方都市の現象~町全体のさびれと中心街の空洞化~は酒田も例外ではないようです。スーパーが郊外の7号線沿いに移転した駅前商店街は 昼から シャッターを下した店が多く、百貨店がある中町のアーケード街も 夕方には人通りはまばら。しかし、江戸や大阪との交易で栄え、「西の堺・東の酒田」と称された繁栄の歴史は 今も ここそこに残っています。けばけばしい装飾のチェーン店や騒々しいパチンコ店が立ち並ぶ郊外の光景はいずこも同じですが、街中(まちなか)は人気(ひとけ)が少ないのも幸いし?、しっとりと落ち着いています。レストラン、とんかつ屋、寿司屋など個人営業の店は数多く健在で、酒田は元気を内に秘めた都市なのかもしれません。

山居橋1山居倉庫2山居倉庫1 酒田めぐりの起点・終点は 2日とも 山居倉庫前の広い駐車場(無料)。山居倉庫は明治26年に建てられた土蔵造りの米穀貯蔵所で、観光物産館になっている2棟を除き、現在も使われています。裏手の黒壁と、西日・海風から倉庫を守るケヤキの大木の撮り合わせはベストポイント。山居橋を渡って、川(新井田川)向こうから見る倉庫群もそれに劣らぬ撮影ポイントでした。

日枝神社4 山居倉庫から北西へ1㌔半ほど、日和山公園の東にある日枝神社。赤い鳥居の後ろ、隋神門(寺でいう山門)は天明八年(1788)の建立ですが、焼失し、現在のものは本間家が 明治36年 再建したものだそうです。社殿は(写真)天明四年(1784)、本間家三代光丘が寄進したものだそうです。社殿の庇の龍と獅子の彫り物がみごとなら、屋根を懸命に支える猿もおもしろい彫り物でした。日枝神社3日枝神社2日枝神社1
 日枝神社の大祭は400年の歴史がある「酒田まつり」。来年が400年の本年祭で、今年はその前年祭でしたが、明日(5月19日から3日間)から祭りという静かな前夜、レストラン『欅』で夕食を食べ、金山町に向かったのは つい 5月のことです。
 酒田にはもう一つ祭りがあります。「どんしゃんまつり」。こちらは25年の“歴史”。商店街主催の秋の収穫感謝祭(10月18日~19日)で、通りには幟がはためいていました。「どんしゃん」とは伝説の大魚・呑舟(どんしゅう)が転じたものだそうです。
 ところで、日枝神社には“上”と“下”があり、写真は下日枝神社。上日枝神社は巡りませんでした。

光丘文庫 日枝神社の近くに、光丘文庫という、これも由緒ありげな建物が木立の中に静かに建っていました。以下は[案内]の引用です。本間家三代当主光丘翁は修学のために文庫を兼ねた寺院の建立を江戸幕府に願い出たが、新寺停止の政策により、果たせなかった。その意志を受け継ぎ、八代当主光弥氏は大正十四年(1925)にこの光丘文庫を建て、その後昭和三十三年(1958)に建物と蔵書は酒田市に寄贈された。光丘文庫は、和書、漢籍、郷土資料、個人蔵書など貴重な図書を六万余冊所蔵し、主として学術研究調査のために利用されている
 折り悪しく、蔵書整理のため一週間休館で、中には入ることができませんでした。ちなみに三代目は“みつおか”ですが、文庫は“こうきゅう”と呼ぶようです。

上喜元 広い通りを何気に小路に曲がると、真っ黒な板戸に真っ赤な紅柄格子(べんがらこうし)の対照が目を惹きました。酒田酒造でした。創業は昭和22年ですが、5軒の蔵元が集まってできた会社とのことで、奥の木造の醸造所はやはり時代を感じさせる風情がありました。銘柄の「上喜元」は国税局全国新酒品評会で5年連続金賞受賞、以前飲んだことがありますが、たしかに旨い酒でした。本間家鐙屋
 通りに戻って、料亭「香梅咲(かめざき)」、「相馬樓」(旧料亭、現在は舞妓さんの演舞場と竹久夢二美術館)など、老舗の(高級?)料理店が並ぶ街並みを過ぎ、中心街を抜けて、旧鐙屋と本間家旧本邸へ。
 旧鐙屋(写真左)は江戸時代繁栄した廻船問屋、井原西鶴の『日本永代蔵』にも登場するそうです。本間家旧本邸(写真右)は、三代光丘が幕府の巡見使宿舎として、明和五年(1768)建築し藩主に献上、その後、本間家本宅として昭和20年まで使われたそうです。旗本二千石の格式をもつ書院造りの武家屋敷で、奥は商家造り。全国にも例がない2つの建築様式が一体になっている建物だそうです。
 本間家は「本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に・・・」と歌に読まれたほどの豪商にして大地主。代々、酒田の発展にも寄与した。とくに、三代光丘は本間家中興の祖といわれ、商売を拡大するいっぽう、庄内砂丘の植林(現山王の森)に私財を投じ、庄内酒井家や米沢上杉家の財政再建にも寄与、天明の大飢饉の時(1783年)には備蓄米の放出するなどした。日枝神社本殿の寄進、幕府巡検使のための宿舎の新築提供(本間家旧本邸)などは前述のとおりです。

飛鳥Ⅱ2飛鳥Ⅱ1 以上が第一日(12日)、1日おいて第二日は、駐車場の整理員から大きな船が来ていると聞き、まず(酒田)北港へ。市街の北のはずれ、山居倉庫から5,6㌔あったと思います。船は日本一周クルージング中の『飛鳥Ⅱ』でした。50,142㌧の日本最大の客船、船籍港は横浜だそうですが、初めて見ました。写真のとおり、たいへんスマートで美しい船体です。背後の山は鳥海山です。

 市街に戻って昼どきとなり、適当に入った「うさぎ屋」はあたりでした。日替わりランチは、肉か魚料理(その日は白身の粕漬け)に小鉢2つ、味噌汁、コーヒーも付いて650円。値段よし、味よしで地元の人に人気がある店のようです。 

千石船松尾芭蕉正岡子規 一息ついて日和山公園へ。“日和”とは海上の天気または海上の天気が良いことで、昔、船頭がこの山に登って“日和”を診たことから、その地名がついたそうです。
 広く気持ち良い静かな公園内には、○江戸初期、奥州と江戸・大坂間の航路を開いた河村瑞賢像。○瑞賢が開いた西廻り航路で、幕府米を酒田港から江戸へ運んだ千石船の実物1/2大の模型。○松尾芭蕉像と芭蕉の句碑2つ、1つは“暑き日を海に入れたりもがみ川”。○子規(“鳥海にかたまる雲や秋日和”)や蕪村、常世田長翆、伊東不玉など、たくさんの句碑がありました。(写真↑)白崎医院
 公園を出て右、街へ向かおうとすると、[←旧白崎医院]と書かれた小さな標示板、それに惹かれて左へ進むと すぐ 白い板壁の建物がありました。
 管理人の話と案内板の説明を合わせると、旧白崎医院大正中期に建てられた酒田市唯一の木造洋風建築で、油問屋だった白崎敬之助なる人物が東大で外科医を目指していた息子(重治氏)のために建てたもの。設計は敬之助氏自身で、製作は地元の大工(小松友治郎という棟梁)。昭和55年の大火後の復興事業にともない、街中から現地に移築した、とのこと。手術室のドイツ製の?照明装置や洗面台、滑車が付いた上下開閉式の窓ガラスなど、外観だけでなく内部もたいへん興味深いものでした。病院は後継ぎがなく2代(重弥氏)で終わったそうです。

旧割烹小幡 白崎医院の管理人の話、「映画『おくり人』のロケに使われた“小幡”が、ここからすぐ近く、公園の正面入口のところにある。料亭だったが今は営業していない」と聞き、山居倉庫への戻り道でもあるので寄ってみました。
 旧割烹小幡(写真←) は昭和元年頃の建築で、洋館と和風(写真では植込みの奥)の両方をもつ珍しい建物。ロケでは、洋館がNKエージェントの社屋という設定で使われた、と説明した看板がシャッターを閉ざした洋館の入口に立っていました。
山居橋2山居倉庫3山居橋3自転車  夕暮れ近くとなり 山居倉庫に戻り、自転車を返却。人気(ひとけ)がなくなった倉庫や橋に灯火が入り、静かな佇まいを見せていました。車を“セブンイレブン”に移動し、暗くなった中心街へ。開いていたのはお菓子屋や果物店、それに飲食店ぐらいでした。
 創業明治35年という「木村屋」で“古鏡”(求肥を小豆餡で包んだもの、高島屋にも売っている)を、「木川?」で“庄内柿”を買い、50年続いているという「伊豆菊」で夕食。「伊豆菊」の名物は“カツ丼”、肉は美味しい三元豚でした。隣りの寿司店「武蔵」と中でつながっており、「伊豆菊」で魚を注文することもできる。それにしても酒田で“伊豆”? 聞いてみると、先代が上野の「伊豆栄」で修行したのだそうです。
 酒田には見どころだけではなく、手ごろな食どころもたくさんあります。今回食した以外に、「ル・ポットフー(洋食)」、「田舎(炉ばた焼)」、「欅(洋食)」、「鈴政(寿司)」、「わたり(トンカツ)」などは味見済み。次の機会に入ってみようと思っているのは「魚一」です。銘酒『上喜元』を飲みながら・・・(終)
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残雪の5月、花の7月に続いて、10月13日体育の日、紅葉の鳥海山に登りました。コースは今回も鉾立から登る象潟コース。紅葉は、山麓(一合目~五合目)のブルーラインが真っ盛りで、中腹(五合目~八合目)はやや盛りを過ぎ、山頂付近(八合目~)はハイマツや岩壁がうっすらと着氷し、早や初冬の気配でした。

賽ノ河原~御浜御浜1鳥海湖1鉾立(五合目)から御浜(七合目)
写真左:賽ノ河原を過ぎ御浜への登り、石畳の道が続く。写真中:御浜小屋の北側に広がる台地。写真右:御浜小屋の南側にはお馴染みの鳥海湖。

紅葉3紅葉2紅葉1行きの紅葉三景
御浜から八丁坂を降り・登りし、七五三掛(しめかけ)を過ぎて外輪山の取り付きで。鳥海山は五合目あたりが森林限界、それより上の植生は草原と低い灌木です。

外輪山1霧氷と紅葉霧氷1外輪山は初冬の気配
外輪山の高い所に生えているハイマツには霧氷が付き、道には雪が残っていました(写真左)。山の上は初冬、中腹は秋です(写真中)。陽が当たらない外輪山“北壁”も着氷(写真右)。文殊岳・伏拝岳(ふしおがみだけ)・行者ヶ岳と3つのピークを越え、外輪山の最高点(七高山、写真の左外)に達します。

月山と雲海月山遠望
月山(がっさん)は庄内平野を挟んで、鳥海山の南に対峙します。
雲海の上に、わずかに頭を見せていました。その全容にお目にかかれるチャンスには なかなか 巡り合えません。

祓川ヒュッテ河原宿小屋河原宿小屋と祓川ヒュッテ
鳥海山には十本以上の登山コースがあります。象潟コースは最もポピュラーで、西から登ります。
南の代表は湯ノ台コース。心字雪渓、薊坂を経て、伏拝岳で象潟コースと合流します。写真(左)の台地の上に河原宿小屋が見えます。北の代表は矢島コースで、竜ヶ原湿原から大雪渓を登り、山頂(七高山)に達します。写真(右)の森に囲まれた“空地”が竜ヶ原湿原で、その右上隅にあるのが祓川ヒュッテです。もちろん今の時期、雪渓に雪は残っていません。東の代表は百宅コース、まだ歩いたことはありません。

日本海2山頂1日本海1日本海
鳥海山はその長い(西の)裾野を日本海におろしてます。なので、いつも日本海を見ながら歩くことができます。
写真(左)は文殊岳(外輪山最初のピーク)の登りから。写真(中)は外輪山を東へ回った七高山近くから。右は中央火口丘新山のスロープ、左は外輪山、新山の基部に山頂小屋(大物忌神社御室)がある。写真(右)は帰りの御田ヶ原付近から、午後の陽光に光る日本海。

外輪山1稲倉岳新山1火山・鳥海山
鳥海山は「出羽富士」と呼ばれ、麓から見ると秀麗な形をしていますが、有史以前から近世までの活発な火山活動で、とくに象潟コースは起伏の激しい複雑な地形をしています。
写真左:新山と外輪山。享和元年(1801年)の大爆発で、荒神岳を覆うように七高山より6m高い新山(2236m)ができた。それまでは、有史以前のことであるが、爆発で山頂部が吹き飛んで外輪山(七高山など)が残り、その後、爆裂火口内に中央火口丘(荒神岳)が形成されていた。写真中:V字左は新山、右は七高山のスロープ。正面は稲倉岳。稲倉岳は西鳥海火山体に属し、東鳥海火山体(新山や外輪山)よりも早い時期に形成された。御浜も西鳥海火山体の外輪山の一部。左端に鉾立駐車場が見える。写真右:七高山付近から見た東鳥海火山体外輪山。外輪山は東から西の南側のみで、北側にはない。

紅葉4鳥海山鉾立駐車場山頂から鉾立
写真左:紅葉・黄葉のクローズアップ、八丁坂の下りで。写真中:鳥海山を振り返る、御田ヶ原から。この日、鳥海山には 早朝から夕方まで 雲ひとつ かかりませんでした。写真右:御浜をあとに、一路鉾立駐車場へ。中央、台地の端に、ビジターセンターなどの建物とたくさんの車が見えます。駐車場から10分ほどの鉾立展望台には、観光客もたくさん上ってきます。

※コースタイム:[行]鉾立P6:00、御浜8:10-8:30、文殊岳10:15-10:30、七高山11:45。[帰]七高山12:15、七五三掛13:50、御浜14:50、鉾立P16:20
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