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12日~14日、再び東北を旅した。山はもう冬で私たちの技と力では無理、行く先は羽黒山と酒田。羽黒山は5年ぶりの「五重塔」を訪ねることが、酒田は大正時代に建てられたという木造旅館「最上屋旅館」に泊まることと、本間家旧別荘「清遠閣」とその庭園「鶴舞園」を観ることが旅の目的である。

羽黒山五重塔
12日、羽黒山に着いたのは午後2時頃。“登山口”の隋身門から“山頂”の三神合祭殿まで1.7㌔、冷たい小雨が降るなか、見事なスギが立ち並ぶ表参道を上がる。延々と続く石段の数は2466段あるという。途中、南谷を往復したので、五重塔がある“麓”に戻ったときは、あたりはすっかり暗くなってしまった。そこで、14日、酒井松山藩跡と眺海の森を見たあと、再び羽黒山へ。五重塔を“心ゆくまで”たっぷり鑑賞(参拝)した。

須賀の滝隋身門隋身門(随神門)を潜り、須賀の滝(すがのたき)を見ながら朱塗りの神橋(しんきょう)を渡ると、うっそうと立つ杉林の中に五重塔が見え隠れするようになる(写真)。ひときわ立派な木は爺杉である。樹齢千年という。樹高42㍍、幹周り10㍍。国指定天然記念物。
随身門:元禄年間(約280年前)秋田矢島の藩主矢島公の寄進。もと仁王門と称したが、明治の神佛分離の結果、仁王尊を他に移して随身像を安置することとなった。櫛石窓神(くしいわまどのかみ)・豊石窓神(とよいわまどのかみ)と申して門戸を守護し給う神である。…以下略

爺杉と五重塔今日も空は裏日本特有の鉛色の雲が垂れこめているが、時おり、雲間から陽が射す。すると、素木造りの塔がほのかに金色に染まり、いっそう美しさを増した。煌びやかでなく穏やかな美しさである。観る者の心を静かにゆさぶるのは、フランスのジャーナリスト、ロベール・ギランが『翼を広げた大きな白い鳥が音もなく飛び立つようである』と讃えた塔ほんらいがもつ優美な姿に、1000年~600年もの間 東北の厳しい自然の中を生き続け、明治の神仏分離令(廃仏毀釈)という 人間が起こした愚かな“嵐”にも耐えた力強さが加わったからであろう。
五重塔1五重塔2五重塔C五重塔3五重塔4国宝羽黒山五重塔:[沿革]古記によれば承平年間平将門の建立と伝えられる(1050年前)。長慶天皇文中年間(約620年前)に再建。慶長13年出羽守最上義光修造(380年前)…中略…昭和41年3月国宝指定…中略… [概要]素木(しらき)造り柿葺(こけらぶき)。方三間五層高さ八丈(24㍍余)。東北地方最古最優秀の塔である。…以下略~平成3年 出羽三山神社

五重塔6五重塔5五重塔B五重塔A五重塔の細部、釘をいっさい使わない木組みがまた素晴らしい。均整のとれた美しさは、荷重や負担を木組みの一つ一つに巧みに分散させたその構造と関係があるに違いない。塔のまわりに何もないのもよい。あるのは杉の巨木だけ。“孤高の美”でもある。しかし、五重塔は好き好んで“孤高の美”となったのではない。
昔、羽黒山にはたくさんのお寺やお堂が建っていた。廃仏毀釈でそれらは悉く取り壊されたが、五重塔は辛うじて難を逃れた。しかし初層内部の須弥壇(しゅみだん)にあった本尊聖観音像は焼かれ、現在は大国主命(おおくにぬしのみこと)が祀られている。

一の坂二の坂三の坂五重塔から三神合祭殿に至る参道は一の坂、二の坂、三の坂と続く。樹齢三百年を越えるスギの巨木に囲まれた気持ちよい道である。ほぼ中間点にある二の坂茶屋は完璧に冬囲いされていた。その先には芭蕉塚(三日月塚)。芭蕉と曾良は『奥の細道』行脚のさい、南谷(写真)にあった紫苑寺に6日間滞在したという。南谷は参道をそれて15分ほど行ったところにある。南谷2南谷1
説明によれば、羽黒山執行別当(最高責任者)天宥法印が拓いた。当時、羽黒山頂には本社寂光寺(今の三神合祭殿の前身)といくつか寺院があったが、類焼するのを防ぐため、それらの寺院を山内に移築した。南谷の紫苑寺もその一つで豪華絢爛な大寺院であったが、場所がら、迎賓館のような役割を果たすようになった。その後紫苑寺は利用されなくなり倒壊、跡地に玄陽院という寺を移築した。玄陽院は明治の神仏分離のさい、取り壊され、残っているのは礎石のみである。

鐘楼(建治の大鐘)と三神合祭殿山頂の摂社・末社群羽黒山山頂(といっても414㍍)にある出羽(いでは)神社三神合祭殿(写真は鐘楼の後ろの建物)。当山の伊氏波神(いではのかみ)のほか、月山の月読神(つきよみのかみ)と湯殿山の神も祀られている。つまり羽黒山に登れば、同時に月山神社と湯殿山神社にもお参りできるわけで、標高それぞれ1984m、1500mの月山や湯殿山に難儀して登る必要はないという“仕組み”になっている。自動車道路も山頂まで通じているので、2446段の石段を歩かずに参拝することもできる。山頂・山内には「末社」という小さな社(やしろ)があって、各地の神々が祀られている。(写真右から八坂神社、思兼神社、白山神社、・・・)


本間家旧別荘(清遠閣と鶴舞園)

別荘全景新館(美術館)13日は本間美術館へ。美術館は“本館”と“新館”があり、いわゆる本間家別荘は本館の方で、新館は1960年代に建てられた鉄筋コンクリート造りの一般的な感じの美術館であった。(写真左)
入館料が両館共通で、とくに観たいと思ったわけではなかったが、成り行きで三代歌川豊国の『役者見立東海道五十三驛』を観ることに。役者絵に広重の“五十三次”を背景に配した構図、浮世絵の本物なぞ滅多に見る機会がないので結構面白く、初めは一枚一枚に付いている歌舞伎のスジも丹念に読んでいった。が、それは”三河岡崎宿”あたりまでで、あとは京都三条大橋まで駆け足で鑑賞し、新館を出た。本館は庭園から入るようになっている。(写真右)

本館へ入る中門本館の玄関中門と玄関
門柱脇の灯篭、山灯篭というらしいが、灯篭らしくないユニークな姿をしている。それにしても“山”がよく落ちないものである。玄関の右側、塀の後ろは茶室「六明廬(ろくめいろ)」になっている。一般には見学はできないようだ。
佐渡の赤石と伊予の青石2佐渡の赤石と伊予の青石1佐渡の赤玉石と伊予の青石
庭園には諸国の銘石が置かれ、灯篭が立っている。これは本館広間の前庭に配されている「佐渡の赤玉石」と「伊予の青石」。写真左の春日灯篭のそばにあるのは「神居古譚(かもいこたん)の石」。これらは酒田の米を西廻り航路で諸国に運んだ帰り、船の安定を保つために船底に積んだもので、綿積石(わたつみいし)という。海難を避ける海神石(わたつみいし)でもあった。
西廻り航路:酒田~日本海~下関~瀬戸内海~大坂~紀州沖・遠州灘~江戸の航路、河村瑞賢が開発。東廻り航路(日本海沿岸~津軽海峡~太平洋~東京湾~江戸)に比べ寄港地が多く安全な航海ができた。東回り航路も河村瑞賢が開発。

本館「清遠閣」本館「清遠閣」
別荘と庭園は本間家四代光道が文化十年(1813)に、冬場は仕事がなくなる北前船の船乗りや湊で荷の積み下ろしをする人夫たちのために築造したもの。代々、藩主や皇族などを迎える酒田の“迎賓館”の役割を果たしてきた。1階は当時のまま、2階は大正天皇の行幸に備え(実現しなかったが)、明治末期(1908)に改装された。
内部は撮影禁止だが、機織りの筬(おさ)の形をした欄間、欅の階段と梅の透かし彫りの欄間(上り下りどちらからでも花びらが見える)、手漉きのガラス窓(手漉きらしく波打っている)など見所いっぱい。アオガイで作られたというシャンデリアも見事だった。
本館と庭園庭園「鶴舞園」庭園「鶴舞園」
庭園は回遊式庭園。池の中島の松(写真の松?)に鶴が飛んできたことから、藩主酒井候が「鶴舞園(かくぶえん)」と名づけられたとか。天気が良ければ、松の後に、雪化粧をした白い鳥海山が見えたはずである。
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