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出雲崎は『小さな旅~優しさは良寛さまが世界一*』を見て 一度 歩いてみたいと思っていたところ、弥彦山はインターネットを検索していた妻が 「この山なら今でも登れそう」と 見つけたところである。(*この副題は小学校4年生の女の子が詠んだ句です)

越後川口SA1越後川口SA2夜間割引を適用すべく赤城高原SAに仮眠し(22日)、翌朝、関越トンネルを通る。期待をはずれ、“トンネルを出ると雪国ではなかった”。道路は、以前、降雪のがあったことをかすかに残すのみ、越後川口SAでは、除雪車が手持ち無沙汰そうに車庫で待機していた。(写真→、右は同SA展望所からの信濃川です)

出雲崎を歩く(23日)
山と海に挟まれた細長い平地に軒を重ねるように家並みが続く。その長さおよそ4㌔。資料によれば、出雲崎は、神話時代に大国主の命によって開拓されたという歴史の古い町。海上交易の港として、北陸街道の宿駅として、軍勢の集結地としても重要なところであった。

出雲崎宿ここが(写真→)北國街道出雲崎宿の北(新潟市側)の入口。ここから南へ『妻入りの街並み』と称する旧北陸道を歩く。井鼻、木折町、鳴滝町、羽黒町、石井町・・・と町名が変わる。“町”が付くが、みんな出雲崎町の一部らしい。往時の面影をとどめた木造の民家が通りの両側に並んでいる(写真↓)。妻入りの家並み1妻入りの家並み2
土産物屋ひとつない。物音ひとつ聞こえてこない。しかし、生活の息吹きを感じさせる暖かな雰囲気が街全体を包んでいた。
商店も間口が狭いので、よく見ないとそれと気づかない。“浜焼き”が名物らしく、その中の一店で大きなカレイを2本買い、海浜公園に出て食べた。『小さな旅』では、家々が密集しているため、窓は屋根ぎりぎりの高いところに作られていると説明していた。明りを取る工夫である。

代官所跡出雲崎は佐渡の金銀の唯一の陸揚地であったので、徳川幕府の天領となり代官所が置かれた(元和二年(1616))。右の写真はその最初の跡地。立派な建物の前に立つ説明板によれば、街中では手狭となり、尼瀬などに何度か移転されたという。建物自体は代官所とは関係なさそうである。大崎屋の跡
左の写真は旅人宿「大崎屋」の跡。奥の細道の行脚をしていた芭蕉はここ大崎屋に一泊したという(元禄二年(1689)七月四日)。説明板には、その夜、海辺の窓を押し開けて大宇宙を観じた芭蕉は、天下の名吟“荒海や佐渡によこたふ天河”の霊感を得た、と記されていた。
町の柏崎市寄り、住吉町に「芭蕉園」があり、石像と句碑が建っている。

しかし、何といっても出雲崎ゆかりの人物ナンバー・ワンは良寛さんである。
良寛は、宝暦八年(1758)、出雲崎の名家(名主)橘屋山本家の長男として生まれた。名主が性に合わず、18歳で隣町の曹洞宗光照寺に入る。22歳のころから備中玉島の円通寺住職・国仙和尚に師事、33歳の年に、仏道の悟りを開いた証明書である『印可の偈(いんかのげ)』を受ける。翌年、師が亡くなると寺を出て諸国を行脚し、39歳の頃、故郷に戻った。
生涯 寺を持たず、弟子もとらなかった。民衆に対しては難しい説法はせず、自ら質素な生活をすることで人の道を伝え、分かりやすい言葉で仏の道を説いたという。良寛さんが好きなものは3つ、子供と手毬とおハジキだった。 “この里に手まりつきつつ子供らと遊ぶ春日(はるひ)は暮れずともよし”

良寛堂2良寛堂1町のほぼ真ん中、橘屋の屋敷跡のゆったりした公園風広場に、「良寛堂」という小さなお堂がある(写真→)。堂内には、良寛持仏の石地蔵をはめこんだ石塔が安置され、“いにしへにかはらぬものはありそみ(荒磯波)とむかひにみゆる佐渡のしまなり”の歌が刻まれている。石地蔵は拝むことができたが、歌はよく見えなかった。お堂の裏側(海側)に良寛さんが座っていた。 じっと 海を見ている(写真→)。海の向こうには佐渡が横たわっているのだが、今日は見えない。それとも良寛さんには見えているのだろうか? 佐渡は良寛さんの母の生地である。また、山の上には、「良寛記念館」と「良寛と夕日の丘公園」がある。

石井神社1石井神社2家並みの通りを離れ、住吉神社の横から急な石段を「石井神社」(いわいじんじゃ)に上がった。日本海の眺望が素晴らしく、また狛犬のポーズが何とも可愛い(写真←)。案内板によれば、ここも神代の昔の故事に基づく神社で、約300年続く大祭には100軒近くの露店が開き 今なお 賑わいを見せるとあったが、戸口を固く閉ざした社殿と人影がまったくない境内の様子からは あまり 想像できなかった。
出雲崎俯瞰3出雲崎俯瞰2出雲崎俯瞰1石井神社を出て、良寛記念館を裏から表へ抜け、「良寛と夕日の丘公園」へ。手毬を片手に、子供らと談笑する良寛さんを見、歩いてきた街並みを見下ろす。どの家も海に直角に建っている。間口が狭く奥行きが長い“妻入り”、という建て方が出雲崎の家屋の特徴である。(写真↑)
出雲崎俯瞰スペシャル“妻入り”? 調べたところでは、”妻”とは“ハシ”を意味し、建物では大棟(切妻屋根・寄せ棟・入母屋などの屋根の最上部にある水平な棟)と直角な面、すなわち長手方向の端の面のことであった。その面を道路側に向けて玄関(出入口)を設けたので“妻入り”である。大棟と平行な壁面を“平”といい、平側に出入口を設けた様式を“平入り”という。

街を歩いて発見の一つは、出雲崎は神社やお寺がたいへん多いことだった。ほとんど通りから階段を上がった山の中腹に建っている。津波など緊急時の避難場所でもある。その中の一つに「多聞寺」という寺があった。上杉謙信の本庄攻めや景勝の佐渡平定の際の宿陣になったそうだ。
日中は穏やかな天気であったが、夕方から歩くのも難儀するほどの強い風が吹き、出雲崎をあとにした。次の機会は、良寛さんが晩年を過した国上山(くがみやま)にある「五合庵」を訪れたいと思う。またできれば、良寛と夕日の丘公園から佐渡を眺めてみたいものだ。


彌彦神社に参拝する(24日)
JR長岡駅前夜半から雨は雪に変わり、今日は 一転 雪景色。写真は長岡駅前(東口)。
ホテルのスタッフが車に積もった雪を落としてくれて、寺泊経由弥彦村に向かった。寺泊では 一度 車から出てはみたものの、あまりの強風に散策は取りやめた。
交通量が少ない郊外の道は雪解けが進んでいない。スリップに注意し、ときどき、左右に美しく広がる“真っ白い”田園風景を見ながら走った。

弥彦神社鳥居弥彦神社万葉道彌彦神社に到着。神社の裏側の駐車場らしい。表側へまわって、赤い鳥居(←写真)をくぐる。まず、弥彦山に登るべく、表参道わきの彌彦神社万葉の道に入った。杉並木がみごとである(←写真)。
登山道は、九合目まで上っているロープウェイ乗場のすこし手前で左折、小さな川を渡り、コンクリート素材そのままの鳥居から始まった。

登山道冬季休業中、しかし、雪囲いはなく自由に休憩できる茶屋の横を通り、三分の一ほど雪に埋もれた一合目の石柱を過ぎる。周囲は立派な杉林、土曜日とあって、地元の人らしい登山者と頻繁に行き交う。しかし、登山者が途絶えると、あたりは森閑とした冷(霊)気に満ちる。
ほどなく道は下りとなった。いずれまた上りになるだろうと どんどん 歩いていったら、せせらぎを渡り(写真→)、とうとう人家もある広い道に出てしまった。どうやら弥彦山スカイライン(冬季閉鎖中)に通じているらしい。折りよく、一見して地元の登山者と分かる男の人が歩いてきた。道を尋ね状況を話すと、『ああ、どこそこで道を間違えましたね。これから登るのでいっしょに行きましょう、間違えたところまで案内します』という。
登山道分岐我々が下ってきた道を すこし 戻って、(麓をまくように)別の平坦な道を進むと・・・、見覚えのある鳥居と茶屋があるではないか! そこから、また同じ道を登り一合目をすこし行ったところで、『ここがあなたたちが間違えた地点です』という。見れば、ちゃんと指道標が立っている!(写真←) ジグザグに登ってきた道を右へ鋭角に曲がるべきところを、我々は直進してしまったのである。この分岐点前後で、運悪く誰にも会わなかったのも災いした。
道々の会話から。『どこから来ましたか?/横浜です』。『横浜といっても広いですが・・・/金沢区です』。『大学卒業後数年、東京勤めで鶴間に住んでいました(これが二の矢の質問をしたわけ)/弟(義弟)が鶴間に住んでいます』。現在は燕市に住み、年に100回は弥彦山に登るそうである。ユキワリソウやカタクリが咲く早春がお勧めで、とくに、カタクリは大牧沢コースで大群落が見られるとのことだった。

親切で快活そうな彼は山頂を目指し登っていったが、山頂までは2.3㌔、1時間はかかる。時刻は2時半を過ぎている。それに、上のほうは雪が締っているかもしれない。アイゼンも車においてきたことだし、我々はここから下り、日が暮れないうちに、彌彦神社に参拝することにした。

弥彦神社境内弥彦神社拝殿弥彦神社隋神門万葉の道からショートカットで彌彦神社境内に入れるが、“正式に”表参道フルコースを進むことにする。
鬱蒼とした杉並木にうっすらと雪が被り、荘厳な雰囲気がより強く演出される。手と口を清め境内へ。隋神門を通して見る社殿、弥彦山を背にした社殿(拝殿)、境内の塀越しに高く伸びた杉林、どれも絵になる構図である(写真↑)。
多くの参拝客に混じって神妙にお参りする。御祭神は天照大神(あまてらすおおみのかみ)の曾孫・天香山命(あまのかぐやまのみこと)だそうだ。
地元では、彌彦神社の神様は女性で、カップルでお参りすると嫉妬して、必ず別れさせてしまうという噂があるとか。私が対象ではそのような心配はまずないが、天香山命はれっきとした男の神様。妃神・熟穂屋姫命(おしほひめのみこと)が弥彦山頂の奥宮に祀られていることから生じた誤解だろうか?
境内社狛犬この写真の狛犬は随身門のものではありません。随身門わきの、各地の神様を集めた社(摂社・末社?)を守っていた狛犬です。雪を頭にのせた姿が愛らしく、“阿”・“吽”を一つに合成しました。天香山命の後嗣の神々などを祭ってあるという八つの社が並んでいましたが、訪れる人もなく、参道・境内の賑わいをよそに静かな一画でした。

彌彦神社をあとにし、県道29号(?)をまたぐ日本一という大鳥居の下を通って、昨夜と同じ、長岡駅前のホテルに戻る。夕食も昨日と同じ、ホテルで教えてもらった割烹「秀浜」。タイやツブ貝、地元ではカイタタキと呼ぶクルマダイ、本マグロなどの刺身、活きダコ、〆サバ、生ニシンの焼き魚など日本海の幸、カキ鍋とカキフライ、米ナス田楽、うるいのおひたし、雑炊、茶そばなどなど・・・、たらふく食べた。註:メニューは2日分です。

弥彦山に登る(25日)
登山道1昨日、一日中降ったり止んだりした雪も上がり、再び 彌彦神社に向かう。今日は彌彦神社直行である。時間が早いせいか、駐車場は昨日よりいくぶん空いていた。神社を横切るように通り抜け、登山口の鳥居へ。登山道分岐
“鬼門の”分岐点までは昨日と同じコース。その分岐店を慎重に右折する。今日間違えたら大バカである。
今日も地元の登山者がいっぱい。我々はふつうの登山靴にアイゼン携行だが、地元の人は長靴である。この程度の雪質なら、長靴のほうが歩きやすいかもしれない。昨日の燕市のガイド氏は、山用品専門店より安いニトリなど日用品店で買うと話していた。爪つきで上が締まるタイプである。平地を歩くときも便利だし、雪の季節、東北や北陸に来るたびに長靴が欲しいと思うが、まだ買っていない。

五合目五合目に大きな鳥居が立っていた。鳥居から弥彦山山頂を仰ぎ見ることができ(帰りは見えた)、多くの人はここで拝んで先に進む。我々もそれに倣う。おそらくここで造ったのであろうが、それにしても大きな鳥居で、崖ぎりぎりまで後ろに下がり、どうにか全体を画角に収めることができた。登山道2登山道3登山道4
五合目を過ぎると、雪が深くなり、固くなってきた。樹相は杉から雑木に変わる。時おり、木々の枝から雪が舞い降ると、幻想的な光景となった。

九合目弥彦山と多宝山を結ぶ稜線に上がる。九合目、[日本海・佐渡ヶ島]と書かれた道標に何ともいえない情緒を感じる。眼下の日本海と越後平野の眺めが素晴らしいが、日本海から吹きつける寒風も並みではない。山頂(奥宮)
林立するテレビ塔横の坂道をやっとの思いで登りきり、奥宮建つ標高638㍍の山頂に到達した。
奥宮とは「彌彦神社御神廟」の通称?で、天香山命と妃神熟穂屋姫命を祀る霊所とのこと。弥彦山で最も尊いところだそうである。熟穂屋姫命御神体は弥彦山西側の中腹にある妻戸神社(つまとじんじゃ)に祀ってあるそうだが、夏は草が生い茂り、参詣するのもたいへんなところらしい。

下の写真は九合目~山頂からの日本海冬景色と越後平野雪景色。荒波打ち寄せる海岸は寺泊です。
日本海1日本海2越後平野1越後平野2

帰り、かなり降りたところで、登ってくる昨日のガイド氏に会った。今日は数人連れであった。
弥彦山、地元の登山愛好家に好かれているのも道理の、いい山であった。まずは、ユキワリソウやカタクリ咲く季節に また 登りたい。晴れていれば、越後三山や飯豊連峰の眺望も素晴らしいであろう。

      

ホテルから今夜の宿は新潟市内のホテル、夕刻から降り始めた雨は、ホテルに着いたときは霙混じりの本降りとなったため、外出は諦め、夕食はホテル内の寿司店「かね清」で摂る。「秀浜」に劣らず旨く、とりわけタイの刺身は逸品だった。
雨は未明には雪に変わったようで、朝起きると雪景色(写真→、ホテルの部屋から窓越しに撮ったもの)。昼過ぎまで、古町通りや本町市場をブラつき、やはり上里SAで仮眠し(26日)、横浜に帰った。関越道から見えた越後三山(駒ヶ岳・中ノ岳・八海山)や谷川連峰の雄大な山なみが圧巻だった。
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