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12日 喜多方から国道121号線を米沢へ。『天地人』が終わって観光客がすっかり減ってしまったという上杉城址公園や上杉伯爵邸庭園を散策後、国道13号線を福島に移動した。13日は中野不動尊、医王寺などをまわり、14日は降りしきる雪の中、飯坂温泉街を歩いた。

中野不動尊
中野不動尊祈祷殿飯坂温泉から米沢方向へ6㌔ほどのところにある。800年余り前、恵明道人によって開かれ、三ヶ月・眼守・厄除けの三不動明王を祀る。日本三不動という。昨年9月に行った倶利伽羅不動も日本三(大)不動と謳っていた。調べると、目黒不動尊と成田不動尊が二大不動尊で、あとの一つは諸説あるらしい。中野不動尊大日堂中野不動尊大日堂、寂光門から
境内を散策する。祈祷殿の屋根下の彫り物が精緻である(写真→)。朱塗りの大日堂が薄く雪化粧した木々の中に鮮やかだ(写真←)中野不動尊、洞窟内の仏様大日堂奥の院から洞窟入口洞窟内部
一つの入口から洞窟へ。(写真→) あちこちに三十六童子が祀ってある。岩山を穿った洞窟は存外長く、滝の背後を通って寂光門に出た。(写真上右、手前の庇が寂光門) 写真右中は大日堂奥の院(洞窟内にある)から大日堂出入口を見たもの。
中野不動尊は、三大不動尊か否かになど関係なく、歩いて楽しく 見て面白い不動尊だった。

医王寺
医王寺門飯坂温泉街に戻る。医王寺の門柱に『信夫荘司佐藤基治公/継信公・忠信公/菩提寺』と大書された板が懸っている。(写真→) 『記』に・・・当寺は瑠璃光山医王寺といい、平安時代淳和天皇の御代、天長三年(826)の開基で弘法大師の御作の薬師如来をお祀りしている。当地方を信夫といい、信夫の荘司であった佐藤基治は治承の昔(1177)大鳥城を居城とし、奥州南部の広域を治め非常な権勢を持っていた。信仰心の篤い基治は御堂を改修し堂塔伽藍を建立し、源氏の再興を祈願し一族の菩提寺として寺門を興隆させた・・・
医王寺、薬師堂への杉並木医王寺薬師堂門から200㍍ほど杉並木の道が続く。右手内塀で仕切られた中に本堂、左手に宝物殿、杉並木の奥に薬師堂と佐藤公一族の墓所がある。(写真←)医王寺本堂継信公・忠信公の墓医王寺薬師堂
継信・忠信は義経の忠臣だった。
『記』のつづき・・・やがて平泉の鎮守府将軍藤原秀衡のもとにあった源義経が平家討伐に向かうとき、基治はその子継信と忠信の二人を遣わした。兄弟は義経の忠実な家来としてめざましい活躍をしたが、兄継信は屋島の合戦で能登守教経の矢を受け義経を守る盾となり、また後に、頼朝との和を失った義経一行が京都で追手に遭い苦戦に陥ったとき、弟忠信は義経を名乗って敵を引きつけ主君を逃がし、自分は身代りとなった。
その後、弁慶とともに無事に奥州に下った義経一行は、平泉へ向かう途中、大鳥城の基治に会い、継信・信の武勲を伝えるとともに当寺に参籠して二人の追悼の法要を営んだ。

薬師堂に参拝する(写真↑左)。継信・忠信兄弟の墓碑は、同じ大きさ・同じ形の自然石を二つ並べたユニークなもの(写真↑中)。二人が“双子”だった(という話もある)ことを意識したのだろうか。両親佐藤基冶・乙和御前の墓碑も自然石だが、子供のものより小ぶりだった。
本堂(写真↑右)と宝物殿に立ち寄る。
「奥の細道」の行脚途中の五月二日(新暦六月十八日)、医王寺を訪れた松尾芭蕉は、継信・忠信とその妻たちの忠誠・孝心の話に強く胸をうたれ、次の―句を残した。
 『笈(おい)も太刀(たち)も 五月(さつき)にかざれ 紙幟(かみのぼり)』
その句碑が本堂のそばにあった。宝物殿には“弁慶の笈”が展示されていた。芭蕉は見ただろうが、“義経の太刀”は戦時中に分からなくなったそうだ。
『記』のつづき・・・時は移っても、後の世まで伝わる継信・忠信兄弟とその妻たちの忠孝に心を打たれた松尾芭蕉や松平定信をはじめとする文人墨客が香華を手向けている。・・・(終わり)
※妻たちの孝心とは、継信と忠信の妻が、息子二人を失って嘆き悲しむ年老いた義母乙和御前を慰めようと、気丈にも自身の悲しみをこらえて夫の甲冑を身に着け、その雄姿を装ってみせたという話を指す。

大鳥城址
大鳥城址案内図医王寺の北1㌔ほどのところにある大鳥城址に向った。しかし、大鳥城は山城(館山230m)。城跡に上がる道路は真っ白で車が通った形跡もなし。冬タイヤだったが上がることはやめた。道路わきに立っていた『大鳥城案内図』にも佐藤父子についての簡潔明瞭な説明があった。参考までに引用する。
1180(治承四)年 城主佐藤基冶の子 嗣信・忠信は源義経に従って出陣、嗣信は屋島の合戦にて主義経の矢盾となって討死。行年三十六才、1185(寿永四)年。  忠信は吉野山にて義経一行を救うも捕えられて京都にて自刃。1186(文治ニ)年、行年三十四才。  1189(文治五)年八月 城主基冶、長男前信他一族を率いて義経追討の鎌倉勢を石那坂に迎撃し頼朝の大軍を阻み目覚しい老の戦死をとげました。行年七十三才。  同月十三日 大鳥城落城。
ここに城を築くとき生きた鶴を城の中央に埋め本城の守護神と成す。故に“大鳥城”の名を負わせたり。「鶴の魂 羽を張り 大鵬に変じ 敵を拒む」ところの堅城とうたわれた・・・信達一統 志より

文人墨客ならずとも、佐藤一族の悲話には心動かされるにちがいない。


飯坂温泉・雪景色
十綱橋14日朝の間、福島交通飯坂温泉駅前、摺上川に架かる十綱橋(写真←)を渡って愛宕神社に行き(上がり)、ひとつ川上の新十綱橋(写真→)を渡って中心街に戻った。新十綱橋から摺上川
昼からは八幡神社や8軒あるという公衆浴場のいくつかをまわった。鯖湖湯のようなひなびた木造建築を期待して 一つ二つ 入るつもりでいたが、鯖湖湯以外はみんなコンクリート造り、“湯めぐり”は“見た”だけだった。
十綱橋は現存する大正期の鋼アーチ橋で 最も古いものの1つで、土木学会選奨土木遺産の一つだそうだ。橋の袂に立っていた石碑『十綱橋由来』から・・・

 みちのくの とつなの橋に くる綱の 絶すも人に いひわたるかな  千載集
平安の頃、この地に藤づるで編んだ吊橋がかけられていた。文治五年(1189) 大鳥城主佐藤元治は、義経追討の鎌倉勢を迎え撃つため、この橋を自らの手で切り落とし、石那坂の合戦に赴いた。その後は両岸に綱をはり舟をたぐる「とつなの渡し」にたよったが、摺上川はたびたび氾濫する川で、舟の往還にも難渋した。
明治六年(1873) 盲人伊達一、天屋熊坂惣兵衛らの努力によりアーチ式の木橋が架けられ、「摺上橋」と命名されたが 一年ほどして倒壊、同八年に宮中吹上御苑の吊橋を模して十本の鉄線で支えられた吊橋が架けられ「十綱橋」と名づけられた。大正四年(1925) 橋の老朽化に伴い、当時としては珍しい現在の十綱橋が完成された。昭和四十年(1965)に大補修が加えられ、飯坂温泉のシンボル的存在となっている。
 飯坂の はりかね橋に 雫する あづまの山の 水色のかぜ  与謝野晶子

また、医王寺に参詣した松尾芭蕉は、その夜、飯坂温泉に泊まり、鯖湖湯に浸かったといわれる。十綱橋の袂には、芭蕉像が立っている。

愛宕神社への石段愛宕神社愛宕神社から飯坂の家並み愛宕神社は愛宕山公園の一角、小高い山の上にある。(写真←) 歩きがいある石段を昇る。今朝はまだ誰も歩いていない。山上広場に小ぶりだが、味わいのある御堂が鎮座していた。御堂と祭神を守る狛犬のいかめしい顔つきがまたいい。広場から雪に煙る温泉街を一望する。冬の旅情緒を感じさせる風景だ。愛宕山の果樹園で
広場から雪に煙る温泉街を一望する。冬の旅情緒を感じさせる風景だ。奥の院から公園へまわり、車道を街に降りた。途中、果樹園の横を通ったが、雪帽子を被ったリンゴが“1個”枝にぶら下がっていた。リンゴ農家は、野鳥の餌や来季の豊作祈願のため、実を 1個 木に残しておくと、テレビで聞いたことがある。八幡神社
八幡神社は飯坂温泉総鎮守とあって、大きく立派な神社。秋の例大祭は三大けんか祭りの一つとして有名。創建年月は不詳だが、社伝によれば…ここでも源義家と佐藤基治が出てくる。
平安時代後期の天喜四年(1056) 後三年の役で奥州に出陣した源義家がこの地にさしかかったとき、空に長くたなびく八条の雲を見た。義家は、あたかも源氏の白旗が大空に翻るかのように、守護神の八幡大神が戦勝の験として示されたものと信じ、必勝祈願のために勧請したと伝えられている。その後の養和年間(1181)に 大鳥城主佐藤基治が豊前国宇佐八幡宮を奉遷して社殿を建立し、武神八幡大神を祀り幾多の武器を寄進して武運を祈願した。時は降って宝永七年(1710)、城内から現在地に再建されたのが現在の社殿である。

ほりえや旅館から鯖湖神社ほりえや旅館から鯖湖神社宿屋から飯坂温泉の夜景と朝景
・鯖湖神社と鯖湖湯(神社の後ろ)
・撮影:13日18時頃と14日9時頃
・13日夜はまだ雪は降っていないが、翌朝は一変
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蔵のまち『喜多方』に行きました。11日午後は街中の『蔵』を見て歩き、12日午前は郊外の神社仏閣を 四つ 車でまわりました。一番印象に残ったのは、それぞれ、甲斐本家の蔵座敷と新宮熊野神社の長床(拝殿)です。

蔵めぐり
菅井屋薬房・遠藤宗平宅・小原酒造休日開放の市役所駐車場に車をおき、田村川を渡って「おたづき蔵通り」へ。市街の蔵はほとんど、南北に走る それぞれ 700㍍ほどの「おたづき蔵通り」と「ふれあい通り」に集まっている。公開は年に一度の大善家を過ぎた四つ角に、菅井屋薬房遠藤宗平宅小原酒造が並んでいる。(写真→)小原酒造
菅井屋薬房は現役の薬屋。遠藤宗平宅は元米屋・質屋で江戸~明治初期の建築。小原酒造は享保ニ年(1717)の創業、仕込みの時に「もろみ中の酵母」にモーツァルトの名曲を聴かせるというユニークな醸造を行っているという。代表的な銘柄は『蔵粋(くらしっく)』で、けっこう有名らしい。(写真←、写真→では一番奥)金忠
通りを挟んだ向かいは、創業天保年間の金忠という味噌と醤油の製造販売。(写真→) 白漆喰の蔵がほとんどの中で、ここは珍しく(?)土色だった。“金忠”は創業者:金澤屋忠蔵から、石川の出身。併設した左の建物は田楽喫茶で、店名を「豆○(まめまる)」という。大森家店蔵
小原酒造と同じ並びの大森店蔵は乾物商・山林地主村松屋の旧店蔵で、建築は江戸末期(推定)。白漆喰と格子がとりわけ美しい蔵だった。(写真←)
馬車の駅の先は蔵はまばらとなり、北町公園のところで左に折れる。北町公園とその傍には、瓜生岩子という女性の胸像と生誕の碑が立っていた。まったく知らなかったが、日本のナイチンゲールと呼ばれ、福祉・慈善事業の先駆者としてその生涯を捧げた。

甲斐本店外観重厚感ある黒漆喰甲斐本店外観田村川を渡り返し、「ふれあい通り(中央通り)」を左折する。角に大きな五十嵐商店があり、その隣りが甲斐本家(甲斐本店)(写真) 五十嵐商店よりさらに大きい。落ち着いた小豆色のレンガ塀と重厚感ある黒漆喰壁の店蔵である。店(酒屋)の前を通って見学入口にまわる。
醸造蔵外観醸造蔵(見学入口)醸造蔵(展示室)醸造蔵から蔵座敷へ蔵座敷前の庭園入口は醸造蔵から。元醸造所らしく、外から見えていた高い煙突が屋内の真ん中にデンと立っている。日常用品や美術工芸品の展示を見て、いったん外に出、庭園にまわる。
蔵座敷の見学は庭から。美しく豪華で それでいて華美ではない、ため息が出るような座敷だった。

  ~~~甲斐本店と蔵座敷~~~
庭園から座敷蔵全容甲斐家は代々吉五郎を襲名、初代が幕末に酒造りを始め、三代目が麹製造・製糸工場で財を成し、四代目は味噌・醤油の製造を営んでいた。蔵座敷を建てたのは四代目。
蔵座敷は大正六年から七年間の歳月をかけて建築した豪華なもので、その技法・構造は粋を極めたものである。上段・下段二つの座敷から成る五十一畳の広い座敷には書院・本床・脇床が配され、書院の窓は黒檀、戸縁は紫檀を使用している。その重さに耐えるため、敷居に樫の木を埋めこんである。座敷は総桧造りで、床材には四方柾の桧、鉄刀木(たがやさん)、黒檀などを用いている。さらに、二つの座敷は1枚の檜板を数ミリ幅の細い桟にくり抜いた筬(おさ)欄間で仕切られ、襖や壁は金雲模様が施されている。

甲斐本家蔵座敷蔵座敷、上段の間蔵座敷、下段の間甲斐本家蔵座敷座敷を仕切る筬欄間
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洋間(店蔵の一部)、喫茶室時計ら旋階段ら旋階段豪華な座敷を見たあと、いったん通りに出て、売り場に入る。“ら旋階段”を見るためである。みごとな“ら旋階段”は店の奥にあった。欅の大木を手斧(ちょうな)で削って造られたものだそうである。また、店の人の話では、蔵よりも古いのではという年代物の柱時計が、時を刻んでいた。
蔵の一部だった応接室が喫茶室となっており、一休みして甲斐本店を出た。

吉の川酒造金田洋品店山中煎餅本舗島慶園吉の川酒造金田洋品店山中煎餅本舗お茶の島慶園を通りから見る。(写真←)
吉の川酒造は江戸~大正の建立で、瓦の屋根が80㌢くらい浮いた構造の貯蔵蔵に特徴がある。真夏でも蔵の中は23℃以下に保たれるという。金田洋品店は店蔵として最古のレンガ蔵で、明治44年竣工。なかなか美しい。山中煎餅本舗の店蔵は明治初期、天井の波打ち工法仕上げがポイントとか。島慶園は昭和5年の建立。喜多方周辺はかって茶の産地だったそうだ。
若喜レンガ蔵若喜レンガ蔵さらに続く蔵の中で、目を惹いたのは、中央通りと市役所通りの四つ角に建つ若喜レンガ蔵(写真→) 創業(醤油・味噌) 宝暦五年(1755)、建立(蔵) 明治37年。“若喜”は初代が若松屋喜祖右衛門だったことからついた屋号。蔵座敷の特徴は 写真でも分かるように バルコニー風玄関が付いていること、天井・鴨居・柱・座卓・火鉢まで 縞柿の木で統一された縞柿の間である。時間外で?、見学はできなかったが、店内から“縞柿の美しさ”をちょっと見ることはできた。

田原屋菓子店田原屋菓子店は純和風割烹料理屋として建てられた店蔵で、昭和23年の建立(平成15年改修)。通りから奥まったところに建っている。(写真←)
三津谷レンガ蔵群三津谷レンガ蔵群煉瓦工場、十連式登り窯駐車場に戻り、蔵めぐりの散策中、街角の立て札で見て気になっていた十連式登り窯を見に行った。場所は三津谷という市街からは4㌔ほどのところ。喜多方の煉瓦・瓦のほとんどはこの窯で焼かれたものだが、現在は 採算上の理由で操業を停止しているという。(写真→)
登り窯のすこし先に、集落全戸(5戸)がレンガ蔵を持つという三津谷レンガ蔵群がある。翌朝、寺社めぐりに先立って、その内の1つを(外から)見た。(写真→)


三津谷集落で三津谷集落で磐梯山、中善寺から←夕景・・・1月11日、三津谷集落付近で
→朝景・・・1月12日、中善寺で、磐梯山



古刹めぐり
マップ-喜多方周辺予報によれば、この冬一番の寒波が襲来し、日本海側は明日(13日)から、大雪になるという。古刹めぐりは中善寺、勝福寺、熊野神社、願成寺の4つで切り上げ、明るいうちに栗子峠(国道13号線)を越え、福島(飯坂温泉)に移動することにした。

中善寺(ちゅうぜんじ)
中善寺、薬師堂と新薬師堂(下)中善寺薬師堂中善寺薬師堂三津谷レンガ群のすこし南にある。周辺の田畑は雪を被って真っ白、その彼方に磐梯山が美しい。境内もかなり雪が残っていて、苦労して、新薬師堂への石段を昇り降りした。薬師如来座像(国の重要文化財)が祀ってあるらしいが(たぶん新薬師堂に)、お堂の扉は閉まっていて拝顔することはできなかった。寺の建立は古く鎌倉末期らしい。
当寺は『喜多方事件発端の会合地』であったことが書かれた説明板が立っていた。明治15年(1882)2月、福島県令となった三島通庸は会津三方道路の建設を計画した。しかしその内容は民意を無視し、工事費の過重な負担を住民に強いるものであった。・・・中略・・・ 反対運動の指導者たちが次々と逮捕される状況下の11月26日、近在の村人がこの中善寺に集まって、同盟の結束と訴訟の継続を話合い、逮捕者の見舞いのため28日の喜多方集合が決められた。こうしてこの寺の会合は喜多方事件の直接の発端となった。 喜多方事件は自由民権運動の弾圧と無関係ではなく、福島県は運動を推進する自由党勢力が盛んだったらしい。

勝福寺(しょうふくじ)
勝福寺観音堂勝福寺・山門と観音堂中善寺から1㌔ほど南へ下る。会津三十三観音第六番札所。山門を入ると正面に観音堂、右脇に鐘楼。観音堂は寄棟・茅葺き屋根を持つ和様・唐様折衷建築、国の重要文化財。調和のとれた美しい伽藍である。寺の創立・沿革は明らかでないそうだが、悲しく美しい観音堂建立の話しがある。それは・・・
昔、「勝ノ前(すぐれのまえ)」という女人が京より松島への旅の途中、病のため逗留したがこの地で没した後に尋ねた中将正保が深く悲しみ、その冥福を祈って建立したと伝えられ、古くから「勝の観音堂」と呼ばれてきた。
堂は享禄二年(1529)に回禄し(火災に遭うこと)、その後まもなく、会津藩主葦名盛興によって再建が開始され、20数年を費やして永禄元年(1558)に完成したのが現観音堂である。・・・中略・・・ 昭和五十九年から六十一年にかけて解体修理が行われ、仏壇を現状のままとするほかは、再建当初の姿に復旧整備された。

新宮熊野神社
熊野神社・手水鉢新宮熊野神社新宮熊野神社勝福寺から喜多方の西南の街はずれにある新宮熊野神社へ。太い注連縄を張った木の鳥居をくぐると、左に拝観受付があったが誰もいない。そのまま 「長床(拝殿)」へ進む。
途中の手水鉢の水は完全に凍っていて、竜の口からは一滴の水も出ていない。
長床と大イチョウ、赤い屋根は文殊堂)熊野神社長床熊野神社長床熊野神社長床熊野神社長床
「長床」と呼ばれる拝殿は、茅葺き寄棟造り、幅九間・奥行四間。直径一尺五寸(45.5㌢)の円柱44本が5列に並び、各柱の間は十尺(303㌢)の等間隔ですべて吹抜けという、実に豪快で素朴な建物だった。説明によれば、前身建物は鎌倉時代初期と推定される。慶長十六年(1611)の大地震で倒壊し、3年後に再建されたが、旧材を使用したためやや小ぶりになってしまった。そこで、昭和四十六年から四十九年にかけての解体修理のさい、できる限り当初の姿に復元したとのこと。国の重要文化財。
長床と大イチョウ長床と大イチョウ長床の前に大イチョウが立っている。神社創設(応徳二年、1085年)の折り 植えられたものと口伝され(樹齢600年?)、目通り7㍍80㌢、主幹が折れるまでは会津若松市からも見ることができたという。熊野神社本殿
長床の後ろの石段を上がったところに「熊野三社本殿」が並んでいる。中央が本社新宮殿(新宮証誠殿)、左右が末社の那智殿(那智山飛竜権現殿)と本宮殿(本宮十二社権現殿)である。沿革によれば・・・平安中期の永承六年(1051) 奥州平定を命じられた鎮守府源頼義とその子義家は、紀州熊野三所に武運を祈願し、前九年の役(1051~62)に勝利したのを機に天喜三年(1055) 河沼郡熊野堂村(現河東町)に熊野三社を勧請したが、後三年の役(1083~87)の兵乱が始まった応徳二年(1085) 八幡太郎義家によって熊野堂村からこの地に移された。当初は本村に新宮、岩沢村に本宮、宇津野村に那智殿が別個に祀られていたが、後にこの地に合祀された。・・・以下略
赤い屋根の「文殊堂」が長床の左横にある(長床全容の左に写っている)。文殊堂(宝物殿)には運慶作の「騎獅文殊菩薩像(獅子にまたがった文殊菩薩様)」が安置されているらしいが、宝物殿は閉まっているようだった。 『冬の長床』はよかったが、『春の長床』・『秋の長床』も良さそうだ。

願成寺(がんじょうじ)
願成寺山門熊野神社から喜多方市街の西のはずれを北へ走る。願成寺には国の重要文化財「会津大仏」があるというので訪れた。
庇の横木(専門用語で頭貫)に載った小さな彫り物がおもしろい山門(写真→)をくぐり本堂へ。本堂の縁側には、撫で仏の「賓頭盧(びんづる)さん」が寒風に頬を真っ赤にされていた。賓頭盧尊者はお釈迦様の弟子・十六羅漢の筆頭。願成寺・会津大仏
会津大仏(阿弥陀如来座像)」は、本堂を右奥に進んだ立派なコンクリート造りガラス張りの阿弥陀堂に、「勢至菩薩」と「観音菩薩」を伴って座しておられた。御身の丈:八尺。光背にたくさんの小さな仏像が配されている。約一千体あるそうだ。「勢至菩薩座像」も「観音菩薩座像」も国の重要文化財で、三体とも鎌倉初期の作と推定されるが、金色の輝きを失っていないのは驚きだった。
縁起によれば・・・願成寺は嘉禄三年(1227)開基で、法然上人の高弟隆寛律師を開山上人に仰ぐ。律師は同年に起きた『嘉禄の法難』でこの地に流罪となるが、80歳という老齢でもあり 京からの途中 飯山(神奈川県厚木市)に留まり、当地へは弟子の実成和尚を遣わした。実成和尚はこの地に一庵の建立、律師を迎えに飯山に戻るが、すでに入滅されていたため、その庵に遺骨を葬った。のち、戦乱などで衰微したが、寛文五年(1665)に行誉和尚が中興の祖となって、現在地に堂宇を再建した。門、本堂、庫裏はいずれもその頃の建造である。
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