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宿や店が並ぶ参道、その家並みが切れるあたり、左に明神鳥居があり[重要文化財・大神山神社奥宮、徒歩15分]と書かれた、鳥居に負けないくらいの柱が立っている。大山寺(だいせんじ)はまっすぐ。大山といえば『大山寺』という意識があったので直進する。
写真1c:大山寺本堂写真1b:大山寺中国観音霊場写真1a:大山寺山門ちょっと“中華風”の山門、ここが“中国”というわけでもあるまいが、をくぐると、「中国観音霊場第二十九番札所/伯耆観音霊場第十五番札所」という大きな建物が左手にあり、正面に大山寺本堂。観音霊場の前に座っているのは、お寺なのに狛犬ならぬ“狛狐”。本堂の扉は赤い。寺というより神社っぽいイメージがする。それに 期待していたより規模が小さく、古刹という感じがしない。

写真2:大神山神社入口少々がっかりして鳥居まで戻り、大神山神社奥宮へ向かう。杉木立の間を石畳の道が延びている。2月に入っての暖冬で、雪はほとんど融けている。登山靴は履いているが、例年ならアイゼンも必要だろう。写真3a:大神山神社神門写真3b:大神山神社奥宮
石畳が終わり石段を上がると神門閂が内側でなく外側についている。パンフレットによれば、もともと大山寺本坊西楽院の表門としてあったが、1875年、寺から神社にそのままの向きで移転した、のだそうだ。門を入ると、強面のいかにもらしい狛犬に守られた大きな社殿が目に飛び込んできた。両側の石垣が壮大感を増している。
写真3f:拝殿欄間の彫刻写真3e:本殿内部の神輿写真3d:本殿内部の彩色画写真3c:奥宮社殿(拝殿・弊殿・本殿の複合殿)奥宮社殿全国最大級という権現造りで、本殿の前に幣殿・拝殿を連ねた複合殿※弊殿とは本殿と拝殿の中間にある幣帛(へいはく)を手向けるための社殿。 拝殿の左右に長い(50㍍)翼廊が付いている。建立は文化二年(1805)と云われる。
拝殿から本殿内部を見る。建物の造りは素木のままであるが、格天井や彩色画、西日本最大級という神輿など 装飾豊かである。弊殿の、拝殿との区別がつかないが、柱や鴨居に施された白檀塗り(銀箔の上に生漆を塗り化学変化により金色に見せる技法)は日本一の規模だそうだ。拝殿軒下、欄間の彫刻もまたみごとで、200年の風雪を経たものとは見えない。

写真3g:拝殿翼廊と大山伯耆富士大山を見ることは今回の旅の大きな楽しみのひとつだったが、あいにくの空模様で一度も姿を見せない。出雲・松江から大山寺に来る前、ビューポイントの一つ「植田正治写真美術館」に回り道したが、裾野まで厚い雲に覆われていた。ところが奥宮から下山神社に行くさい、なにげに後ろを振り向くと、山頂部が拝殿の上に見えるではないか! しばし、その神々しい姿に見入る。
大神山神社はもとは大山の麓に鎮座し、その神を祀るものだった。この奥宮は“中腹”に大山山頂の遥拝所として設けられたもの。奥宮は冬季に祭祀が行えないため、その後“山麓”に本社が設けられ、夏季は奥宮、冬季は本社で祭祀を行うようになった。本社は当初は大山山麓にあったが、数度の遷座の後に明治初年に現在地(米子市尾高)に遷座した。 奥宮は まさに に大山の遥拝所 だったのだ!

写真4:(末社)下山神社下山神社。奥宮の隣りにある。元徳二年(1330)に建てられた「下山善神」が起源で、社殿は石州津和野の領主亀井隠岐守矩貴公が文化二年に再建したもの。奥宮社殿と同じく複合社殿で、複雑な屋根構造は八棟権現造りというもの。小さいが華麗で、末社というが、こんな立派な末社は見たことがない。
写真5:長い石畳の参道それにしても、大山寺と大神山神社の“雲泥の違い”は何だろう? 長さ約700㍍、自然石の石畳としては日本一という参道を戻りながら思った疑問は、その夜(27日)、宿のご主人から聞いた話で解けた。説明板で得た知識と併せると・・・
大山寺は、奈良時代 金蓮上人が寺を建て、地蔵菩薩を祀り、修験の道場として開いたのが始まりといわれる。平安時代になり、高僧慈覚大師が教えを広め天台宗に属した。いっぽう、大神山神社はもとは大山(古名大神岳)の麓に鎮座し、その神を祀るものであった。同社は智明権現と称し 地蔵菩薩を本地仏とした。
大山寺は大神山神社とともに、『神仏習合』の中で勢力を拡大し、かっては高野山金剛峯寺や比叡山延暦寺と並ぶ日本でも屈指の大寺院であった。しかし 『廃仏毀釈』により、明治8年、大山寺号は廃絶となり、大日堂(現在の本堂)に本尊を移し、本殿を大神山神社に引き渡した。建物も多くが取り壊され、大山寺は急激に衰退した。大神山神社は、山腹の智明権現の仏塔を廃して奥宮とした。大山寺の号は明治36年に復活したが、今は4つの参拝堂と10の支院を残すのみとなっている。現在の本堂は、度重なる火災の後、昭和26年に再建されたもの(道理で新しかった)。大神山神社の今の主祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと、大黒さま)である。

明日の行動についてのアドバイス・・・阿弥陀堂は 是非 見て欲しい。大山を見たいならスキー場(豪円山)に上がるのがいい。北壁が目の前に見える。大山のビューポイント鍵掛峠は(思っていたとおり)冬期閉鎖中とのことだった。


翌朝(28日)も天気は悪い。雨こそ落ちてこないが、山麓は深い霧に包まれている。車は宿においたままで阿弥陀堂へ。阿弥陀堂は大山寺橋を渡り、大山道へすこし進んだところを左に上がる。
写真6a:大山寺阿弥陀堂1写真6c:阿弥陀堂2写真6e:阿弥陀堂3石段を登っていくと、御堂が浮かび上がった。大きな屋根、宝形造りだが、参拝所の上はすこし張り出させ変化を付けている。
写真6b:大山寺阿弥陀堂1写真6d:阿弥陀堂2写真6f:阿弥陀堂3大山寺阿弥陀堂。大山寺に現存する寺院では最古の建築物。霧に煙る木立の中に静かに佇ずんでいる姿は 実に 味わい深いものがあった。説明によれば、もともと常行堂として平安初期(藤原時代)に建立されたものといわれ、大水害で倒壊したため、室町末期の天文二十一年(1552)、古材を利用してこの地に再建された・・・堂内の阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩・勢至菩薩の両脇待像)は天承元年(1131年)に仏師良円の作と伝えられる。 大山三合目まで往復したあと、もう一度見に行った。午後、霧が晴れた明るい木立の中に建つ阿弥陀堂もまた、朝とは違う美しさがあった。冬場だからだろうか? 阿弥陀堂の扉は固く閉ざされていた。

大山寺阿弥陀堂・大神山神社奥宮には国指定の重要文化財が数多くある―大山寺阿弥陀堂および堂内の阿弥陀三尊。大神山神社奥宮社殿。末社下山神社社殿。宝物館の銅造十一面観音立像(奈良前期白鳳時代の金銅仏)、銅造観世音菩薩立像(奈良期前後の金銅仏)、鉄製厨子(大人が4人がかりでやっと持ち上げられる重いもの)―など



写真7c:ブナ林の根開け写真7b:大山一合目写真7a:阿弥陀堂から大山へ例年なら歯が立たないところだが、今年はとりわけ雪が少ない。阿弥陀堂から夏道登山道を、大山三合目のすこし先[標高1100㍍]のところまで登った。
写真7d:大山ニ合目写真7e:大山三合目写真7f:標高1100m写真7g:夏山登山口思いのほか賑やかで、ピッケル・六本爪アイゼンの重装備から、我々のようにアイゼンなしサブザックだけの軽装まで、装備はさまざま。厳冬ならぬ暖冬2月で、山頂(弥山)を目指した人も多かったようだ。極めつけは百人はいたかという韓国から団体、「アンニョンハセオ」を連発させられながらすれ違った。車に戻り一休みしていると、青空が広がり始め、待望の大山が姿を現した。
写真8a:裏通りから大山写真8b:参道から大山標高2000mに満たない西日本の独立峰ながら(最高点は剣ヶ峰の1729m)、岩と雪のアルプス的景観を呈していた。「北壁」を眺めるためスキー場に行く。スキー場へは無料のリフトが動いていた。雪は融けてしまって、滑れるスキー場は一番奥の一つだけらしい。写真8e:大山北壁のズームアップ写真8d:スキー場から大山北壁写真8c:スキー場から大山の全容
大山は「伯耆富士」と呼ばれ 南側から見ると端正な円錐形をしているが、北側からみると 険しい男性的な姿をしている。
写真9:大山を振り返るいつか山頂(弥山1709m、剣ヶ峰は一般登山は禁止されている)に登りたいものだ。宿のご主人は5月連休明けがお勧めという。大山をあとにし、倉吉・鳥取に向かうため北に走る。次第に遠ざかる大山を振り返りながら・・・ 山だけでなく 麓には立派な文化的遺産もある。大山がこんなに素晴らしいところとは思わなかった。
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宍道湖の西側に位置する出雲市平田町は、熊本・大分から山陰をまわり福井までの長旅の、単なる中継地の一つのつもりだったが、宿(持田屋旅館)の女将さんから、平田は、江戸末期から明治初期、木棉(雲州平田木綿、大阪や京都で高い評価を得ていた)の集散で栄えたところ、小規模だが古い街並みを保存していると聞き、ゆっくり見学(散策)することにした。
写真1:木綿街道街並みは「木綿街道」と名づけられている。2001年の命名。木綿街道はこの通り(写真1)と奥を左に折れた通りの二つだけ。川(平田船川)向こうには昔の家並みがたくさんあったが、道路建設のさい、取り壊されてしまったそうだ。当時の大地主だった本石橋家と木綿街道交流館になっている旧長崎医家以外は、今も町の人々が暮らしている家々である。妙に観光地化されていないところがいい。

写真2:本石橋邸本石橋邸:1750年頃のごろの建物。間口の狭い妻入り造りの母家の間口を広くするために両脇に庇を設け、間口を五間半に広げている。格子は長い2本と短い2本が組み合わされた出雲格子、白壁を飾る二段のなまこ壁は四半張という古典的な市松模様。(写真2)
写真3a:本石橋邸内写真3b:奥座敷写真3c:内縁写真3d:内縁の縁桁写真3e:階段箪笥
交流館の人の案内で邸内に上がる。奥座敷(写真3a奥と写真3b)は松江藩主の御成座敷として造られたもので、主室は床・棚・書院が整った格式ある書院造り。棚にあるのは大国隆正の書。内縁(写真3c)縁桁(えんげた)(写真3d)にはみごとな天然木が使われ、目を見張るものがあった。
その他、茶室や庭園、土間など、みどころいっぱいの邸宅だった。
※石橋家の当主は 代々 地域の近代化に貢献したが、大国隆正は幕末維新時の国学者で、幕府の追及を逃れるため、一時期、石橋家にかくまわれた。屋敷には、「はしご階段」や「階段箪笥」(写真3e)があり、「かくし部屋」を設けたと云われる。
※また、石橋孫八(弘化4年~大正4年)は本人も漢学者だったが、日本を代表する漢学者・国学者を招き、明治5年に自宅を校舎として郷校を開校し、出雲地方の学問振興に努めた。結果、明治6年3月、県下最初の小学校(現平田小学校)の創設となった。

写真4b:交流館ギャラリー(平田木綿絣)写真4a:交流館(旧長崎医家)調合之間交流館1階は喫茶室や展示コーナーがあり、2階はギャラリーと収蔵庫。いちばん奥の6畳ほどのスペースが一段高くなっている。案内の人が調合之間(写真4a)だという。年代ものの調度品がおかれ、高級そうな平田木綿絣の着物が無造作に鴨居にかかっていた。(写真4b)
※調合之間:漢方薬を調配合するところ。秘伝を守ること、生薬を煎じるときの臭気が居間に流れないようにするため、調合之間はこのようなところに作ることが多い。 交流館は、昭和2年まで、200年続いた外科の名門医長崎家の屋敷だった。元文三年(1738)年 長崎祐伯という人が金物屋を借りて開業、4年後に外科御免となる。「御免」とは、藩が医者にに対し直接免税措置を執ったのではなく、医者に定住してもらう代わりに、町組織が屋敷を給し宅地に課された税を負担すること。平田町ではその際の家の改造も負担したそうだ。

写真5:持田醤油店懇切丁寧な案内にお礼を言って、交流館を出る。
持田醤油店(写真5):持田屋旅館は素泊まりで、朝食はこことコラボ。お年よりずっと若く見えるおばあさんの話を聞きながら、焼きおにぎりセットを頂く。ここの名物は醤油ソフト、但し冬は作らない。ちなみに昨夜の夕食は、女将さんお勧めの“回らない”回転寿司「こいし」、お風呂は近くの共同温泉「割烹温泉ゆらり」。
写真8:石橋酒造写真7:加藤醤油店写真6:酒持田本店酒持田本店(写真6):明治10年創業の老舗蔵。銘柄は『ヤマサン正宗』。昭和26年建造のレンガ造りの高い煙突がトレードマーク。二階の格子は長短2本づつを組み合わせた出雲格子。 加藤醤油店(写真7):切妻・妻入2棟から成る。切妻の鮮やかなべんがら格子がひときわ鮮やか。奥、妻入のなまこ壁は珍しい七宝模様。明治8年創業。 石橋酒造(写真8):出雲地区最古の歴史を持つ蔵元(宝暦2年創業)。本石橋家から分家し、酒造業のほかに木綿問屋も営んでいた。柱に飾られているのは綿の木の枝。綿の枝は各家に飾られている。
ほかに、街道すじに来間屋生姜糖本舗、岡茂一郎商店、街道すじではないが小村邸などがある。

写真9a:平田一式飾ほんまち展示館写真9b:一式飾(天地人)写真9c:一式飾(獅子頭)最後に『平田一式飾り』。これは、毎年、陶器なら陶器、仏具なら仏具、金物なら金物など、その一式を使って歌舞伎や映画の登場人物・場面などを技巧を凝らして作り、平田天満宮に奉納するもの。全国に一式飾は24ぐらいあるらしいが、歴史といい作品といい、その中でも秀逸だろう。
祭りの始まりは宝暦2年(1752)、一式飾りの始まりは寛政5年(1793)といわれる。平田寺町の表具師桔梗屋十兵衛が茶器一式で大黒天像を作った。その後、明治末期、千把雲陽という人が看板業を営むかたわら、金網に材料を結びつけることを思いつき、材料を大量に自在に組み立てることができるようになった。写真9aは平田一式飾ほんまち展示館、写真9bは館内の展示物のひとつ『天地人』、写真9cは本石橋邸に飾ってあった『獅子頭』。旧本陣記念館などにも、過去の優秀作品が展示されているようだ。
大分国東半島は密教文化のメッカであり、磨崖仏の宝庫である。

古代の宇佐で生まれた八幡信仰は、古代仏教と融合して「神仏習合」が生れ全国に広まっていった。国東半島にあった六つの郷では、天台宗と結びつき、山あいに多くの寺院を擁立して、独特の仏教文化―六郷満山(ろくごうまんざん)文化―を花ひらかせていったという。六郷満山とは国東半島の六郷にある寺院の総称でもあり、その多くが宇佐八幡神の化身といわれる仁聞(にんもん)菩薩の開基と伝えられる。天台宗の波及と宇佐神宮の財政的支援によって平安末期に隆盛を究めた六郷満山は次第に衰退した。キリシタン大名 大友宗麟(1530~1587年)は多くの寺を焼き討ちしたと云われ、さらに明治初頭の廃仏毀釈で、多くの寺院や仏像・石仏が壊された。

それでも、国東半島には法難を免れたたくさんのお寺・仏さまが脈々と生き続けている。半日という短い時間であったが、2月24日、宇佐神宮に参拝したあと、富貴寺真木大堂および熊野磨崖仏を訪ねた。

六郷:かって栄えた武蔵(むさし、現 国東市武蔵町)・来縄(くなわ、豊後高田市)・国東(くにさき、国東市国東町)・田染(たしぶ、豊後高田市)・安岐(あき、国東市安岐町)・伊美(いみ、国東市国見町)の六つの郷の総称。
満山:六郷の寺院は、学問の地である本山(もとやま)、修行の地である中山(なかやま)、布教の地である末山(すえやま)の3つのグループに分けられた。本山・中山・末山の三山組織のことを『満山』と言い、したがって『六郷満山』とは国東半島の六郷に開かれた天台宗寺院全体を総称して呼ぶ言葉である。

富貴寺大堂
阿形(右)・吽形(左)仁王門富貴寺(ふきじ、蕗寺とも)は六郷満山の中で、満山を統括した西叡山の末寺の一つ。参道の石段を上ると仁王門。石造りの仁王像がなかなか味わい深く、ことに吽形の恰好・お顔はユーモアがあった。さらに石段を上ると国宝大堂(阿弥陀堂)である。
富貴寺大堂宝形造り・行基瓦の屋根二重の垂木富貴寺大堂は平安後期の建立で、榧(かや)の総素木造り。三間四間(柱の間が三つと四つ)の建物で、周囲に廻り縁がある。屋根は単層宝形(方形)造り、行基瓦葺きである。
平等院鳳凰堂や中尊寺金色堂と並んで、日本三大阿弥陀堂の一つとされるそうだが、飾り気のない美しさはまわりの自然と一体になり、鳳凰堂や金色堂では得られない安らぎを与えてくれる。

阿弥陀如来坐像御堂の中に入って驚いた。四天柱で区切られた内陣に、丸顔の阿弥陀如来坐像(本尊、重文)が半開のまなざしで静かに座っている。高さ約85㌢、榧材寄木造り。螺髪で二重円光を背負っている。藤原時代末期の作とされる。保存のため、大事な仏様は宝物館など別の建物に安置するケースが多い中で、これはありがたいことだ。南壁:アップ南壁:釈迦浄土東壁:薬師浄土
薄暗い堂内、目がなれてきて また 驚いた。四方の壁一面に仏様が描かかれている。よく見ると内陣の後壁も同様。かなり劣化が進んでいるが、まだ鮮やかな彩色が残っている仏様もいる。平安三壁画の一つに数えられているそうだ。(重文) ※壁画保存のため、悪天候の場合は堂内公開は停止となる。また堂内は撮影禁止、写真はパンフレットから撮った。

写真1:国東塔・笠塔婆写真2:十王像写真3:石灯篭写真4:石幢また 富貴寺には、参道の上り口や大堂の周囲にたくさんの石造物がある。①国東塔:国東地方特有の形式といことで命名された(写真1の奥に立っている大小二基2つの塔、小は1603年の作) ②笠塔婆:柱上の塔身上に笠石・宝珠をおく(写真1の手前に並んでいる4つ、最も古いものは1241年のもの) ③十王像:写真2、写真1では笠塔婆の後ろに並んでいる。いちばん右端を奪衣婆座像という。 ④石灯籠:写真3、かなり古そうだが年代不詳 ⑤石幢(せきどう):石灯籠に似るが灯籠のように火袋が無い。六面に六地蔵を刻む江戸時代の作(写真4の手前) ⑥石殿:十王を刻んであるので十王石殿ともいう。室町時代の作(写真4の後ろ)。その他、参道左側の板碑(一石で作った卒塔婆、1361年)、大堂内の地蔵菩薩坐像がある(高さ54㌢、1368年)。


真木大堂
真木大堂広い駐車場から道路を渡り、受付のおばさんに拝観料(\200)を払い“境内”へ。しかし山門もなく伽藍らしきものも見当たらない。「左右どちらからでも…」、云われるがままに、正面 ガラス張りコンクリート作りの立派な建物を“右側”から入る。ぶ厚いカーテンを開けてビックリ !! まばゆいばかりの、金ピカではないがそう感じた、九体もの仏さまたちがガラスで仕切られた向こうに並んでいる。伝乗寺旧本堂
真木大堂の前身は馬城山伝乗寺。伝乗寺は六郷満山六十五ヶ寺のうち本山本寺として三十六坊の霊場を有した最大の寺院であった。約700年前に火災で焼失したが、これら九体の仏像は難を免れた。真木大堂は衰退した伝乗寺各寺坊の本尊を集めた“収蔵庫”であった。
写真は伝乗寺旧本堂。正面の扉に菊花の紋章がある。蒙古来襲のとき、鎌倉幕府の要請により国難を救うための大祈祷が伝乗寺で行われた。その恩賞として朝廷より菊花の紋章が下賜された。今の旧本堂は江戸時代?の再建。

大威徳明王像阿弥陀如来坐像四天王立像・増長天不動明王像二童子像・矜羯羅童子二童子像・制吒迦童子写真はパンフレットから。左から大威徳明王像阿弥陀如来坐像四天王立像の一つ増長天(もちろん他の3つ―持国天・広目天・多聞天―も揃っている)、不動明王像二童子像~矜羯羅(こんから)童子と制吒迦(せいたか)童子。すべて藤原時代の作といわれ、すべて国指定重要文化財。それぞれに見どころがあるが、とりわけ、六面六臂六足で火焔光背を負い、水牛に騎乗した大威徳明王像は圧巻だった。高さ2.1㍍、日本一の大きさという。パンフレットの表紙にもなっている。

富貴寺といい、真木大堂といい、大分の山里で、こんなにすばらしい仏さまを拝めるとは思ってもみなかった。


熊野磨崖仏
石仏(磨崖仏)といえば臼杵市だが(まだ観たことはない)、国東半島には多くの磨崖仏が散在している。その中で、熊野磨崖仏は最大といわれる。
駐車場(胎蔵寺)の受付で尋ねると「行き30分/帰り20分」という。すでに午後4時30分過ぎ、時間を心配すると「大丈夫、戻ってこられるまで待っています」という。たくさん用意してあった竹の杖を1本借りて歩き始める。

熊野磨崖仏へ:荒積みの石段熊野磨崖仏へ:石畳の道石畳みの坂道が終わると『熊野磨崖仏入口』と明示された案内板、そこからはコンクリートで固められた木造風階段、その終わりに『熊野権現社』の鳥居が立っている。鳥居からは歩きにくい石段に変わり(鬼が一夜で築いたという“99”段の荒積みの石段、後述)、やがて上方が明るくなった。(写真の左上は岩壁になっており、仏さまはそこに彫られていた)。熊野磨崖仏不動明王像大日如来像
20分ほどで、熊野磨崖仏に着いた。左が不動明王像、右が大日如来像。伝説では、養老二年(718) 仁聞菩薩が造立したと伝えられるが、六郷山諸勤行等注進目録などにより、藤原時代末期(約900年前)の作と推定されている。厚肉彫りの雄大、荘厳な磨崖仏であることから、国指定史跡でありながら美術工芸品としての価値が高いものとして、国の重要文化財指定も併せ受けた。
保存の観点からは異見があるかもしれないが、前に簡単な柵を施しただけの、自然のままの環境の中にあるのがいい。途中、立ち寄った元宮磨崖仏には立派な拝殿が作られていた。

不動明王像:高さ8㍍。右手に剣を持ち、左側の弁髪はねじれて胸の辺まで垂れ、両眼球は突き出し鼻は広く牙をもって唇をかんでいるが、一般の憤怒相ではなく柔和な慈悲相の珍しい不動さまである。 大日如来像:高さ6.8㍍。如来にふさわしい端正な顔形で、頭部上方には三面の種子曼荼羅(しゅじまんだら)が刻まれている。凛とした顔立ちは、すこし愛嬌もある不動明王像と好一対である。

磨崖仏から、もう一息頑張って熊野権現の社(奥の院?)まで上がった。訪れる人も少ないのだろう、小さな、しかし風格のある社が静かに建っていた。

『赤鬼のきずいた九十九の石段の話』
昔々のお話しです。この田染の里に毛のむくじゃらの赤鬼がやってきて、人間を食べるというのです。それを聞いた熊野の権現さまは、何かよい方法はないかと考えました。そして、一夜のうちに百の石段をこしらえたら許してやろうと約束したのです。
権現さまは、とうていできるはずはないと思っていたのですが、なんと赤鬼は、ひょいひょいと石を担いで、あっというまに五十段をこしらえました。その早いこと早いこと、みるみうちに九十九段築いたのでした。
驚いた権現さまは、百段目の石を担いだ赤鬼の足が山かげに見えたとき、「コケコッコー」とにわとりの鳴き声をまねしたのでした。赤鬼は「負けたあ」と最後の石を担いだまま逃げ出していったそうです。
熊野山胎蔵寺から、磨崖仏を通って熊野権現さままで続いている石段は、この赤鬼が築いた石段といわれ、今でも多くの人々に親しまれています。
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