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福井といえば永平寺、5日午前、永平寺に行く。仏殿、法堂、承陽殿(じょうようでん)、山門など、すべての伽藍がピカピカに磨きあげられた廊下で結ばれていたのには驚いたが、その変わり、外には一歩も出られなかった。堂内見学のあと、外から山門を見、ちょっとでも境内を歩きたかったが、(スピーカで)制止された。もう一つ残念なのは、“雪の永平寺”ではなかったこと。

午後、旅の最後は『一乗谷朝倉氏遺跡』。ここは、前夜の宿のご主人の勧めで訪ねた。彼は山鹿(熊本)の出身で、いわば私と同郷、話がはずんだ。京都の大学に進み、しばらく織物関係の仕事をしたあと、この宿に婿入りしたようだ。
パンフレットから・・・ 一乗谷朝倉氏遺跡は、文明三年(1471)から天正元年(1573)まで、戦国大名朝倉氏が5代103年間にわたって越前の国を支配した城下町跡。『都のけしきたちもをよばじ』と詠われるほど栄華をきわめたが、姉川の戦いを契機に朝倉氏は滅亡してゆく。 ――姉川の戦い:元亀二年(1570)、織田信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉義景の連合軍が長浜・姉川の流域で争った合戦、織田勢が大勝―― その後 一乗谷の城下町は、織田信長によって 三日三晩 焼き尽くされ、1573年8月20日、灰塵に帰した。昭和42年から発掘調査が行われ、灰塵の下から、当主の館跡をはじめ、武家屋敷跡や町並みが ほぼ 当時のまま状態で出土し、戦国時代の城下町の形態が全国で初めて 明らかになった。
現在、一乗谷城を含む城下町跡の中核部278㌶が特別史跡として、諏訪館跡庭園はじめ4つの庭園が特別名勝、大量の出土品のうち2343点が国の重要文化財に指定されている。特別史跡・特別名勝・重要文化財のトリプル指定は、京都の金閣寺・銀閣寺・醍醐寺に次ぐ全国四例目
、だそうである。

上城戸下城戸一乗谷は永平寺の南西約10㌔にある。谷の入口に「下城戸」が、その1.7㌔上流(一乗谷川)の谷幅が最も狭まった所に「上城戸」があり、その2つの城戸で守られた、南北に長い区画を「城戸ノ内」という。
上城戸寄りの駐車場に車をおき、そこから左岸の車道を上城戸へ、次いで右岸の遊歩道を下城戸へと、観光客がほとんどいない静かな城戸ノ内を一往復した。

管理棟そばには[復元町並み]があり、武家屋敷や町屋が再現されている。また 寺院などがあった一画が[平面復元地区]としてきれいに整備されている。しかし、興味深かったのは、右岸、山裾(一乗城山)に並んだ朝倉義景やその夫人などの館跡(礎石など遺構のみ)と庭園跡(石組みなどは当然残っている)だった。
諏訪館跡庭園諏訪館跡庭園:諏訪館は義景側室「小少将」の屋敷。庭園は遺跡の中で最も規模が大きく、上下二段の構成になっている。4㍍余りの滝添石は日本最大。湯殿跡庭園、南陽寺跡庭園、義景館跡庭園とともに「一乗谷朝倉氏庭園」として、国の特別名勝に指定されている。
湯殿跡庭園湯殿跡庭園:一乗谷で最も古く、4代孝景の頃の作庭の廻遊式林泉庭園。他の諏訪館跡庭園などはすべて義景時代の作庭。観音山という小山を背景にし、その山裾に築かれている。山石の巨岩による護岸石組、滝石組、三尊石組、亀石組などが構築されている。
中の御殿跡中の御殿跡:5代義景の実母、高徳院(二位の尼)の館跡と伝えられる。池跡の近くに、発掘されたものとしては最も古い能舞台跡がある。
義景館跡唐門義景公墓所義景館跡:完全に埋没していたが、昭和43年の館跡の調査で発掘された。写真左に門が見えるが“唐門”。写真中はその拡大。唐門は義景の菩提を弔うために江戸時代中期に建てられた松雲院の寺門だそうだ。 写真右は義景公墓所。館跡の横にある。お線香をあげた。
英林塚山道をすこし上がると、朝倉氏繁栄の基礎を築いた初代朝倉孝景の墓所(英林塚、英林は孝景の法名)があった。山頂(473m)には一乗谷城跡がある。日本百名城ということで行ってみたかったが、体力切れと時間切れで諦めた。
曇り空の下、人影はまばら。閑散とした遺跡は、何もないといえば何もない。しかし、それが いっそう 往時の栄華を偲ばせた。
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2010.03.04 東尋坊・雄島
3月3日は宮津市から福井市までの移動日。途中、舞鶴市の赤レンガ倉庫群、若狭町の三方湖などを見物。赤レンガ倉庫は旧海軍が築いたとかで、頑丈で趣のあるものだった。横浜市のように“化粧直し"などしないで、是非、このままの姿で遺して欲しいものだ。三方湖は三方五胡の一つ、静かな水辺にたくさんの水鳥が羽を休めていた。ラムサール条約に登録されており、茫洋とした風景は心を落ち着かせるものであった。また、湖畔の梅林(白梅)が、観賞用でなく“食用”だが、みごとだった。敦賀市から道の駅「河野」までは若狭湾(敦賀湾)沿いを走り(快適なドライブウェイ)、福井市に入る。
翌日(4日)、「東尋坊」と「雄島(おしま)」に行った。

東尋坊」はその景勝・奇勝もさることながら、学術的にも世界的に価値があるところだそうだ。
高さ25m、断崖絶壁の東尋坊は、今から約1200~1300万年前、新生代新第三紀新世の火山活動で、マグマが堆積岩層(米ヶ脇層)中に貫入し、冷え固まったできた火山岩(安山岩)でできている。冷え固まるときに安山岩の容積が収縮して冷却面に垂直な方向に柱状の節理(岩体に発達した規則性のある割れ目のうち両側にずれの見られないもの)が発達した。その後、火山岩の周囲の軟らかい堆積岩層が波浪により浸食され 地表に現れた。最後に、海に面した安山岩も波浪により徐々に侵食され、現在のような断崖絶壁になった。
福良の海喰洞今にも雨が落ちてきそうな空模様と平日にもかかわらず、東尋坊は多くの見物客で賑わっていた。 “東尋坊”という名前は伝説によれば、寿永元年(1182)、その乱暴さゆえ、仲間にこの崖から突き落とされた平泉寺(現勝山市)の僧『東尋坊』の名前に由来して名づけられた、という。
大池、池は入江のこと東尋坊と雄島屏風岩と軍艦岩千畳敷屏風岩と軍艦岩

朱塗りの立派な橋を渡って雄島へ東尋坊をあとに「雄島」に向かう(上の写真の左から2枚目に写っている島影)。小さな灯台(雄島灯台)と神社(大湊神社)があるだけで、ほとんど手つかずの自然が残されている。周囲約2㌔。本土側(安島漁港)の広い駐車場に車をおき、朱塗りの大きな橋を渡って島に入り、島内の遊歩道(島を一周する道と真ん中を貫通する道、二つ合わせても1.2㌔)をくまなく歩いた。
島の自然は変化に富んでいる。周囲の岩と中央の照葉樹の森。東尋坊は柱状節理だけだが、雄島は柱状節理(島の西側)と板状節理(島の東側)柱状節理が垂直に発達したのに対し、板状節理は水平に発達したもので、溶岩が流れて冷えていくとき、地面との摩擦で固まろうとする外側と、流れ続けようとする内側との間に力が加わって割れ目になったもの、という。照葉樹はタブノキ、スダジイ、ヤブニッケイなどが種類ごとに森を形成している。植物地理学上も重要な種が生育しているそうだ。
雄島1、瓜割の水付近雄島2雄島3雄島4、島内の森雄島灯台
越前松島方向を見る東尋坊と東尋坊タワーを見る大湊神社拝殿南側には雄島灯台が、西側には大湊神社がある。雄島灯台は昭和29年1月26日初点、光度は5,600カンデラ(日御碕灯台の約百分の1)だそうだ。橋を渡って本土へ
元和七年(1621)の再建という大湊神社の拝殿(写真)と本殿(拝殿の後ろ)は400年近く経ったものとは思えないほど、美しくしっかりしている。地元の人たちに大切にされてきたことが分かる。祭神は航海・漁業の守護神として崇敬されているそうだ。
静かな境内からは東尋坊や越前海岸を望むことができた。
2010.03.02 伊根の舟屋
家の1階は船揚場、2階は住居という独特の景観を持つ漁港、映画『男はつらいよ/寅次郎あじさいの恋』(マドンナはいしだあゆみ)の舞台ともなった『伊根の舟屋』である。
図1b:伊根港マップ図1a:舟屋こんなに(写真→)海岸ギリギリ・海面スレスレに家を建てて大丈夫なのかと心配になるが、①内海(若狭湾)のさらに内湾(伊根湾)で、しかも 湾は南を向いている、②湾の入口にある青島が天然の防波堤になっている(写真→)、③三方を緑の山に囲まれた地勢が波を起しにくい、④潮の干満の差が小さい(年間でも50㌢程度)、のだそうだ。
図2a:道の駅から湾左岸図2b:道の駅から湾中央図2c:道の駅から湾東岸丹後半島の突端・経ヶ岬から伊根に入ったので、順路として、まず道の駅「舟屋の里伊根」に行く。
道の駅は小高い丘の上にある。伊根湾を一望して驚いた。湾に沿って『舟屋』が隙間なく並んでいる。海は凪のように静かだ。中央に青島、左は半島のように突き出た亀島地区、右は日出地区。道の駅の[i]で聞くと、すこしづつ減っているが、まだ約230軒の舟屋が健在だそうだ。道路をはさんで主屋がある。つまり1世帯で2軒の家を持つ。伊根港は京都府一の漁獲水揚げ高があるそうで、豊かな漁港なのである。
図3a:与謝荘から図3b:与謝荘から道の駅にある高級食事処(油屋)が 幸か不幸か 定休日(火曜日)で、[i]で ついでに お勧めの店を教えてもらう。その店は「与謝荘」という舟屋を改築した民宿。泊り客が少ないときは、日帰り客にもお昼を出すという。
食堂の目の前と足下は海。対岸の舟屋群の景観と、今回の旅行で一、二のご馳走(活き造り定食と煮魚定食)、目も口も至福のときを過ごした。図4c:与謝荘近くの船揚場から図4b:与謝荘近くの船揚場から図4a:与謝荘(奥駐車場の手前)
おなかが朽ちたあとは湾内めぐり。漁船仕立ての海上タクシーと定期遊覧船の二通りがあるが、前者が1時間待ちということだったので、後者にした。
遊覧船出港までの時間、与謝荘の周辺を歩く。写真左の奥、駐車場の前にあるのが「与謝荘」、食堂の大きな一枚ガラスが見える。写真中は与謝荘の正面、裏山の緑を映す水面も美しい。何とも 心和む景色だ(写真中)。写真右は、遠く亀島地区をズームで撮ったもの。

図5:遊覧船出航を待つ?かもめ遊覧船の乗場は、R178を1㌔ほど宮津方面へ行ったところ。まだ 幼いカモメが出航を待っていた。乗客が餌さをくれることを知っているのだ。遊覧船は30分間隔、私たちの便の乗客は3組5,6名。次の便は(客ゼロで)出航しなかった。採算が取れるのかと心配したが、切符売場のおばさんの話では、昨日は満員だったとか。日曜日に泊まった人が遊覧船に乗って帰るらしい。
図6a:遊覧船から図6c:遊覧船から図6d:遊覧船から図6e:遊覧船から
図7:道路をはさんで右が舟屋、左が主屋海上から見る舟屋群もまたいい。広い船内、少ない乗客、あちらこちらと場所を移動してシャッターを切る。遠くの山はわずかに雪が残っている。例年なら、舟屋の屋根にも積もっている時期だろう。湾内には生簀が設置してある。生簀はカモメたちの恰好の団欒場、イヤ 案外 会議をしているのかもしれない。ところどころ舟屋がない家もある。大型化された漁船は舟屋に入らないので、屋外のスロープに揚げる。そんな漁師さんの家だろうか? 遊覧船はかなり沿岸にまで近づくことがある。そこは実生活の場なので、あまり近づきすぎても かえって気が引ける。30分で湾内をたっぷり一周、『伊根の舟屋』を堪能した。
宮津(天橋立)へ出発する前、道路をはさんだ家並みを撮影した。見分けがつかないが、右が舟屋、左が主屋である。
2月26日、冷たい雨の中、40数年ぶりに訪れた出雲大社は『平成の大遷宮』で、60年ぶりという大々的な修造工事の真っ最中、国宝の本殿をはじめ 主だった建物はすべてプレハブの中だった。それでも、出雲大社に2時間ほどいて、日御碕に行った。

写真1c:日御碕灯台写真1b:日御碕灯台写真1a:日御碕灯台島根半島の西の突端が日御碕、出雲大社からはおよそ10㌔の距離である。駐車場から、1軒を除いてすべてシャッターを下ろした食堂や土産物屋の並びを抜けると、白亜の美しい灯台が目に飛び込んできた。日本一高い日御碕燈台である。写真2a:日御碕海岸(西側、経島へ)写真2b:日御碕海岸(東側、出雲松島)
後ろは日本海。灯台は概してアクセスが不便なところに立っているが、ここは その点 便利だ。それに、灯台の周辺は海岸に沿って遊歩道が完備している。写真3:日御碕灯台東には 通称「出雲松島」とその先に「島根半島海中公園」、西には ミネコの繁殖地「経島(ふみしま)」があるが、1㌔ほど離れている。天気も悪いので、松島の“始まり”だけを見て、経島はパス、出雲市街に戻った。
途中、日御碕神社に寄ったが、朱塗りの楼門・神殿が鮮やかだった。

日御碕燈台(出雲日御碕燈台):高さ43.65m(海面からは63.30m)。明治36年(1903年)初点灯、100余年の風雪に耐えてきた。光の強さは48万カンデラで、光が届く距離は21海里(約39㌔㍍)。地震に耐えるため外壁は石造り、内壁はレンガ造りの二重構造になっている。国指定重要文化財、世界灯台百選に選ばれている。



3月2日、今日は、道の駅「てんきてんき丹後」から「伊根の舟屋」を見て、宮津までの行程である。今日も雲が厚い。道路地図を見ると「経ヶ岬燈台」というのがある。国道をほとんどはずれないし、宮津までそれほどの距離でもないので、寄ってみることにした。

図4:経ヶ岬海岸(丹後松島)道の駅「てんきてんき丹後」を出て犬ヶ埼トンネルを過ぎると、島々が点在する美しい海岸線を走るようになった(写真→)。『丹後松島』と呼ばれるらしい。島のように見えるるが 実は どれも”陸続き”だとか。干潮になっても、間に“海”が存在するのが「島」ということか、と納得する。図5:経ヶ岬灯台、経ヶ岬灯台公園から
国道(R178)から「経ヶ岬灯台公園」への道に入る。ほどなく公園に着く。敷地の大半は駐車場で、バス専用の区画もある。施設としてはトイレがあるだけの至ってシンプルな公園である。しかし駐車場の前は海、眺めは抜群に良い。肝心の灯台は? 山かげにわずかに見えるだけ(写真←)。観光バスが1台来て、トイレ休憩だけで戻っていった。私たちは灯台まで行くことにする。
図6b:経ヶ岬灯台図6a:経ヶ岬灯台[経ヶ岬灯台400㍍/山頂展望所400㍍]の標識が立つ駐車場のはずれから、ジグザグに山道を登る。途中、山頂展望所への分岐から降ると、やがて、崖の中頃に立つ経ヶ岬燈台が樹間に見えてきた。図7a:経ヶ岬灯台図7b:経ヶ岬灯台
世界灯台百選には入っていないが、日御碕燈台に劣らず、美しい燈台である。案内板によれば、映画「新・喜びも悲しみも幾年月」(昭和61年)の舞台にもなったそうだ。また、明治31年の初点灯ということなので日御碕灯台より5年早い。図8b:山頂展望所から丹後松島側図8a:灯台から若狭湾側灯台の周囲は、山が急斜面で海に落ちている。写真→(左)は東の若狭湾側を見たもの。
灯台をひとまわりし、山頂展望所に登って駐車場に戻った。写真→(右)は、山頂展望所から西の丹後松島方面を見たものである。

経ヶ岬燈台:光の強さは28万カンデラで日御碕灯台より暗いが、光が届く距離は22海里(約41㌔㍍)で日御碕灯台より長い。これは海面から灯火までの高さが約148㍍(灯台自身の高さは約12㍍)から。また電波灯台の役目も果たしており、同じ構内にレーマークビーコンと船舶気象通報観測所が設置されている。

灯台を見るのは好きだ。白亜の人工物だが、まわりの自然に溶け込み違和感がまったくない。むしろ、灯台が風景をより美しくしている。島根半島の東端にある美保関灯台もまた世界灯台百選の一つ。日本に5つしかない百選の二つまでが島根県にあるのは驚きだ。また、いつか島根を旅するときは、美保関灯台を見、日御碕を時間をかけて歩きたいものだ。
門司港駅は、大分・山蔭・福井の旅の中で(2/24~3/5)、25日、国東半島から出雲市に移動する途中、余部鉄橋は、1日、倉吉市から丹後半島に移動する途中に立ち寄ったところである。
写真1a:門司港駅JR門司港駅は、NHK『にっぽん木造駅舎の旅』で、唯一の重要文化財に指定された駅舎と紹介され、寄ってみることにした。大正三年(1914)の竣工だそうで、ヨーロッパ調のスタイル、落ち着いた色調のピンク、駅前の広い空間と、なかなか美しい建物だった。昭和17年の関門鉄道トンネル開通まで、関門連絡船の接続駅であり、九州の玄関口として賑わった。
写真1b:駅構内写真1c:駅構内写真1d:駅長室写真1e:駅ホーム写真1f:駅ホーム
写真2a:旧大阪商船写真2b:旧三井倶楽部写真2c:ウォーターフロント駅周辺は“門司港レトロ”として整備されていて、旧大阪商船三井船舶門司支店や旧門司三井倶楽部などの重要文化財もある。(前者は[登録]、後者は[指定]) 高層ビルはその建築のさい、港の景観を壊す/壊さないで物議をかもした黒川紀章設計の「門司港レトロハイマート」。オフィスビルでなくマンション、屋上の“付属物”はヘリポートである。
裏通りの一軒で、門司港名物『焼きカレー』 (フルーツたっぷりサラダと美味しいコーヒー付き、たしか『ユキ』とかいった)のブランチのあと、関門国道トンネルを潜って本州に渡った。


写真3c:餘部駅へ上がる途中から、鉄橋の先はすぐトンネル写真3b:餘部駅へ上がる途中から鉄橋と海写真3a:余部鉄橋、鳥取側から余部(あまるべ)鉄橋は、鉄道ファンに限らず、超人気のスポットだろう。ふつう、鉄橋といえば、渓谷や河川の上に架かっているが、この鉄橋は国道(178号)をまたぎ、真下に民宿や喫茶店がある。
写真4a:余部鉄橋、餘部駅ホームから写真4b:真下から鉄橋を見上げる写真4c:コンクリート橋桁は豊岡側に付けられている来て見て驚いた。大きなクレーンが数本立っている。この鉄橋では 以前 列車の転落事故が起きている。はじめ、鉄橋の補強工事かと思ったが そうではない。『さようなら余部鉄橋・ありがとう余部鉄橋』の横断幕が張ってある。
鉄橋からコンクリート橋へ、橋梁架替え工事中だったのである。橋下から餘部(あまるべ)(無人駅)に上がり、プラットホームを巡回して係員に聞くと、完成はこの夏。橋脚11基は餘部駅側の3基を残して撤去し展望所になる予定、とのこと。図らずも、余部鉄橋の最後の雄姿を見ることができたのであった。

※余部鉄橋は、高さ41.45m、長さ309.42m、1912年に完成(工期:明治42年12月~明治45年1月)。鉄橋の鳥取側はすぐ駅(余部駅)で、豊岡側はすぐトンネル(於伊呂トンネル)。

山陰線余部鉄橋列車転落事故:1986年(昭和61年)12月28日、和風客車「みやび」の回送列車(ディーゼル機関車と客車7両)が山陰本線鎧駅~餘部駅間にある余部鉄橋を時速約50㌔㍍で走行中の午後1時25分ごろ、日本海からの強風にあおられて客車がすべて鉄橋より転落した(機関車は客車より非常に重いため橋梁上に残った)。転落した客車は真下にあった食品加工場(蟹加工工場)と民家を直撃し、工場の従業員5名と車掌1名が死亡、車内販売員1名と工場の従業員5名が重軽傷を負った。転落した客車「みやび」は大破し、全車廃車となった。
余部鉄橋については老朽化や、この事故で厳しくなった運行基準のために列車の運休や遅れが続出していることから2010年完成を目指し架け替えが予定されている。
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