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長崎駅前から北へ2㌔半、坂本二丁目に寛永十五年(1638)創建という山王神社がある。
昭和20年(1945)8月9日午前11時2分、ここより北西800㍍の松山町171番地上空500mで、プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)が炸裂した。その強烈な熱線と凄まじい爆風のため、神社の社殿は倒壊、隣接する社務所は全焼、二の鳥居は片方の柱を失ってしまった。社殿を囲んでいた樹木は折損し、境内入口にあった2本の大楠は、幹には大きな亀裂を生じ枝葉が吹き飛ばされて丸裸となった。
写真1:被爆直後の大楠右の写真(写真1)が被爆後まもない、その大楠の無残な姿である。神社入口に設置されていた銘板『山王神社の大クス』に載っていたもので、米戦略爆撃調査団撮影とある。(連合国軍は昭和20年9月23日に長崎市に上陸した。銘板は平成7年8月に設置された。) 写真2:現在の大楠、入口石段下から写真3:現在の大楠、境内から
そして左の写真(写真2,3)が、枯れ死寸前の状態から蘇生し、四方に伸ばした枝に、若葉をいっぱいに付けた今の姿である(4月12日撮影)。被爆当時の写真に写っている石段がなければ、これらが同じ木だとはなかなか気づかないだろう。
写真4:大楠写真5:小楠大きい方(写真4)は高さ21.0m、幹周り8m63cm、小さい方(写真5)でも高さ17.6m、幹周り6m58cm。樹齢は5~600年。2年ほどして再び 新芽を芽吹き、次第に樹勢を盛り返したという。その生命力の強さに驚くほかない。 写真6:社殿から
それぞれ、四方に張った枝が上部にいくにつれ交錯しているので、社殿側から見ると、右の写真のように、1本の巨木のようにも見える(写真6)。高齢とやはり原爆の後遺症だろうか、大きい方は工事現場さながらに足場を組み、大々的に治療の真っ最中だった。近づいてみると、幹に黒く焼けた痕が残っているところがあり痛々しい。
家内と二人、彼らの生命力に心打たれていると、通りがかった年配の人が 同じように クスノキを見上げている。何気に話しかけると、この近くに住んでおり、病院の行き帰りいつもこのクスノキを見る。82歳。大戦時、国鉄で働いていて、原爆が投下された翌日ここに来た。あたり一面、焼け野が原で何も残っていなかった。東北の津波被害の惨状をニュースで見て、当時の光景が思い出された、と語る。私の「大浦天主堂やグラバー園、浦上天主堂などおおかたの観光スポットはまわり、最後にここに来たが、このクスノキが一番印象に残った」という言葉には、「長崎は(誰にも案内されず)自分の足でまわるのが一番よい。私は、親戚や友人が来ても、食事はいっしょにするが、観光案内はしない。』という応答だった。

写真7:一本柱鳥居写真8:一本柱鳥居の遺構左の写真は「一本柱鳥居」(写真7)。鳥居は原爆で爆心側の左半分が吹き飛ばされ、右足だけで立っている(写真は神社側から撮ったもの)。説明によれば、山王神社の参道には四つの鳥居があったが、残ったのは爆風に対し平行に立っていた一の鳥居と二の鳥居。しかし、一の鳥居は、その後、“交通事故”により倒壊した。(詳細不明) 二の鳥居の倒壊した部分が参道脇に保存してあった(並べてあった)(写真8)
原爆により壊滅状態となった山王神社は昭和24年より次第に復活し、昭和63年(1988)、神社創建より350年の記念すべき年にほぼ旧来の姿に近く再建されたそうだ。
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長崎・五島を旅したさいの羽田⇔熊本往復便からの空撮写真集です。Googleマップではもっと鮮明な画像が見られるわけで“自己満足”の域を出ませんが、なかにはおもしろいものもあるのでブログにまとめました。写真はクリックで拡大(840x560dots)できます。
①海ほたる4月6日6時55分羽田空港D滑走路から離陸。機種はボーイング737-800。座席は3席2列の左側主翼のすこし後ろでした。浦安方向に飛び上がって(7:05頃)すぐ右に旋回。東京湾アクアラインの海上橋と海ほたる(写真1)が見えたことから、かなりの急旋回だったようです。 ②横浜市金沢区
飛行コースは横浜市磯子付近から(富士山のほぼ真上を飛び)児島半島(岡山)まで一直線、そこでやや南に転じ、阿蘇外輪山の西裾にある熊本空港へ、というコースでした。
2枚目の「横浜市金沢区」は“私的には”はかなり楽しめる写真です。よく知られたところでは、鳥浜のアウトレットパーク八景島シーパラダイス海の公園が見える。かっては通勤の足横浜新都市交通シーサイドライン、今もたまに利用する首都高速湾岸線、日常の散歩コース長浜公園富岡総合公園富岡八幡公園は金沢総合高校の下の暗いところ)も。また長浜公園の汽水池とともに、冬、水鳥が飛来する東急ストア前の船だまり(並木中央駅の右の黒い台形)も。シーサイドラインの海側は企業団地、(並木中央駅前後の)山側は並木団地で、我が棟は長浜公園左に見える2棟の高層棟のそばにあるはず。横浜霊園の向こう(翼の下)はもう鎌倉です。

③江ノ島アッというまもなく江ノ島(7:11頃)。ついで箱根の山と芦ノ湖(写真3,4)
空から見ると、箱根は中央火口丘(神山や駒ヶ岳など)とそれを取り巻く外輪山から成る典型的な複式火山であることがよく分かる。④b 芦ノ湖④a 箱根外輪山三国山をピークとする芦ノ湖側(方位では西)の外輪山(古期外輪山)の稜線には芦ノ湖スカイラインが走っている。外輪山を時計周りにたどると、その下を仙石原と御殿場をつなぐ乙女トンネルが貫通している乙女峠、富士山のビューポイント金時山、金時山から左(東)明神ヶ岳明星ヶ岳である。唯一外輪山が切れたところを国道1号(旧東海道)が通っています。⑤愛鷹山
箱根と富士の間の平地に忽然と現れる山塊は愛鷹山(写真5)。箱根と同時期40万年前の火山活動で形成されたという。その先に駿河湾と伊豆半島が陽光に霞む。愛鷹山群の主な山は北から越前岳、位牌岳および愛鷹山。その周辺は、箱根同様、至るところゴルフ場でした。
このとき(7:16頃)、機は富士山のほぼ真上を飛んでいたと思われる。このあと左側の座席は太平洋とその沿岸の単調な眺めになる。しばし逡巡したが(機内が空いているのを幸い)右側の座席に移動した。

⑥a 伊那谷と中央アルプス⑥b 中央アルプス逡巡が長すぎて(南アルプス北部の)白峰三山や甲斐駒ヶ岳は通過したあとだったが、中央アルプスには間に合った(7:23頃)。天竜川(伊那谷)と木曾川(木曾谷)に挟まれた、頂きに雪を残した中央アルプス木曾山脈)の山々が連なる(写真6)⑦御嶽山と北アルプス北から南へ盟主木曾駒ヶ岳宝剣岳空木岳、南駒ヶ岳、越百岳と並んでいるはずですが・・・。
続いて3000m級の独立峰木曾御嶽山と山また山の北アルプス(写真7)。この中から槍や穂高を見つけるのは至難である。中央最奥は剱・立山だろう。南にすこし離れている乗鞍岳(3026m)だけはそれと分かる。右はるか遠くは妙高など北信五岳かもしれない。⑧両白山地
ちょっと間(ま)があって(5分)白山の文字通り白い塊りが遠くに見えた(写真8) 。白山は単独峰ではなく加越山地の主峰(2702m)である(“加”は加賀石川の「加」、“越”は越前福井の「越」)。また白山の“白”は両白山地の一方の「白」をさし、他方の“白”は越美山地の主峰(1617m)能郷白山の「白」をさす(“越”は越前福井の「越」、“美”は美濃岐阜の「美」)。両白山地の九頭竜川より北を加越山地、南を越美山地という。

⑨a 琵琶湖⑨b 琵琶湖大橋刻々と変わる眺めは琵琶湖となった(写真9)。大きい! ズームを最短(18mm)にしても画角に収まりきれない。東岸の伊吹山地、西岸の比良山地にはまだ雪が残っている。琵琶湖の向こうは若狭湾である。⑩b 関西空港と神戸空港⑩a 大阪湾
琵琶湖大橋を見たところで、自分の席(左)側に戻る大阪湾上空、1994年に開港した関西国際空港と2006年2月開港の神戸空港(写真10) 。関西空港は大阪市街から約50㌔、上から見ると泉佐野市と空港をつなぐ連絡路がいかにも心細く見える。神戸空港は三宮から8㌔。その点便利だが、市営空港で(関空のように)長い滑走路をおいそれとは造れまい。
⑪明石海峡大橋⑫瀬戸大橋機は六甲山脈から児島半島上空へ(7:40-)。神戸市垂水区と淡路島を結ぶ明石海峡大橋(写真11)。全長3911㍍、主スパン長1991㍍、世界最長のこの吊り橋は空から見ても美しい。“1㍍”は阪神・淡路大震災のとき地盤がずれ伸びたのだそうだ。大小の船が明石海峡に白い航跡を残していた。倉敷市と坂出市を結ぶ瀬戸大橋(写真12)。機が海よりに近づいたため倉敷側の橋は見づらくなった。ちなみに瀬戸大橋で最も長いスパンを持つ橋は、坂出側瀬居島と三つ子島に架かる南備讃瀬戸大橋で1100㍍。しまなみ海道は(飛行機の)右側か真下になり見えなかった。
⑬b 四国山地⑬a 石鎚山瀬戸内海を斜めに横切り四国愛媛へ(7:55-)。海岸線の平地に迫るように山並みが壁のように立ち上がっている。壁の後ろは幾重にも重なる四国山地。かって南側から登った近畿以西最高峰(1982m)石鎚山はその最前面にあり、意外と海に近かった。(写真13)⑭宇和海
四国(愛媛)の西の端宇和海。たくさんの島々と複雑に入り組んだ海岸線、いわゆるリアス式海岸がおもしろい(写真14)佐田岬半島が大分佐賀関半島へ細く長く伸びている。この2つの半島間の距離はわずか13.9㌔だそうだ。また佐田岬半島の付け根に四国唯一の原発伊方発電所がある。

⑮祖母山 豊後水道を越え九州に入った(8:10頃)。雲が多くなった。大気も不安定らしく機は小刻みに揺れる。祖母山(写真15)。高さは久住山(1791m、九州本土最高峰)に及ばないが(1757m)、山の奥深さ険しさでは久住をはるかに凌駕する。学生時代、キスリングを背負い祖母山から傾山まで縦走した思い出の山である。全長33㌔のハードなコースだった。一番の印象は岩肌を滑るように落ちていた一条の滝(観音滝)、その光景と水音は今でも目に耳に残っている。 ⑯a 阿蘇山(根子岳)⑯b 阿蘇山(高岳と中岳)⑯c 阿蘇山(草千里ヶ浜)
阿蘇山(写真16)根子岳は岩稜の山、鋸の歯のような特異な山頂は雲がかかってよく見えず。高岳は阿蘇五岳の最高峰(1592=肥後の国)中岳は噴火口がある山。噴煙が昇っていた。草千里ヶ浜は烏帽子岳と杵島岳の間に広がる阿蘇の代表的な観光スポットの一つ。牛や馬の放牧が行われているところでもあり、○○千里ともいわれる。
飛行機は阿蘇上空からフラップを展開し着陸体制に入ったので(乗務員の指示により)撮影を終了した。

⑰大阪湾夜景帰りは、13日夜8時25分熊本発羽田行。四国・紀伊半島・遠州灘海岸・三浦半島から東京湾を北へ、千葉市沖で左旋回してA滑走路に着陸というコース。夜間で撮影条件は厳しいうえに、地震と原発事故の影響か、名古屋など地上は暗く、どうにかまともなのは大阪湾上空(写真17)だけでした(f4.5/0.5秒、手ぶれ防止機能なし)
中通島(なかどおりじま)は五島列島で福江島の次に大きい島。島の人は中通島とは云わず「上五島」とか「上五」と云うらしい。面積は福江島の半分、人口も二分の1だが、教会の数はナント倍の26もある。島の形はキリシタンの島らしく“十字架”の形をしている。
福江を出港11日7時フェリーで福江を出港。福江⇔長崎は常は1日2便だが、シーズンオフのこの時期1隻はドック入りで1便のみ(水中翼船ジェットフォイルは数便あり、フェリーに比べ3倍近く速いが船賃も倍以上)福江港~奈留島フェリーから福江港と福江市街船は久賀島と東方に浮かぶ島々の間を通り奈留島へ。雲が多い空模様だったが、時おり朝陽が波静かな海面を照らす。 奈留島に寄航
奈留港で、フォークリフトで生活物資(お米に見えた)を降ろし、トラックとバイクが乗船してきた。バイクの若者は舅ヶ島海水浴場やユーミンの歌碑『瞳を閉じて』、江上教会を見てきたのだろうか? 港にはタクシーが3台客待ちしていた。奈留島~奈良尾港奈留島を出港奈留港を出港(7:50)。奈留港は入江の奥深くにある。15分ほどもかかって入江の外に出た。外海に出たフェリー「ふくえ」は一路中通島・奈良尾港を目指す。8日の長崎→奈良尾→福江の航路は不快な揺れだったが、今日は外海も穏やかだった。(ジェットフォイルなら海が荒れても揺れは少なく快適だが…)

8時50分、十字架の縦棒の下端に位置する奈良尾に着港。手はずしておいたレンタカーがお出迎え。営業所で手続き後、島めぐりに出発(9時)。福江島で借りたレンタカーは独立系だったが、中通島は系列店でナビなし、くれた地図もアバウトなものだった。明日は約束の30分前(8:30)に返すようにという。都会のレンタカー店のようで人情味が薄い。
※系列店にしたわけは宿を奈良尾から遠い若松島に取り、明朝9時のフェリーで長崎に戻るため。港の近くに独立系レンタカーはない。
蛤浜海水浴場奈良尾から十字架がクロスした中心部(青方・七目)、そこから横木に移って島の東端にある頭ヶ島教会に向かう。途中、蛤浜海水浴場に寄った。遠浅の砂浜と明るいブルーの海、その先に重なる島影。高浜海水浴場とはまた違った美しさの浜辺だった。 頭ヶ島教会
頭ヶ島教会は正確には中通島ではなく、橋(頭ヶ島大橋)を渡った頭ヶ島(かしらがしま)にある。重厚な石造りの外観と優雅な内部構造・装飾の対比がみごとな天主堂だった。この教会に限ったことではないが、離島のしかも僻地にこんな立派な教会を建て、大切に管理してきた島の人々の信仰の篤さには驚くほかない。 花模様が美しい折上げ天井簡素だが落ち着いた祭壇単廊式のすっきりした堂内
中通島の教会はどこも開放されていた。堂内は“原則”撮影禁止だが、失礼を承知で写真を撮らせていただく。 名工・鉄川与助の作。日本の教会堂建築でも石造りは数少ないという。正面の八角形ドーム屋根は何やら回教的イメージも感じさせる。堂内は列柱がない単廊式ですっきりしており、花模様で装飾された二重の持ち送りハンマービーム架構で支えられた折り上げ天井も美しい。三廊式の会堂やリブ・ヴォールト天井など定法どおりの建築様式とは異なる斬新なデザインである。着工明治43年(1910)、竣工大正6年(1917)。国指定重要文化財。 頭ヶ島教会外壁
(注)持ち送り:コーベル、壁から突き出した石などの構造物、ハンマービーム:壁面から突き出た梁。リブ・ヴォールト天井:コウモリ天井
※福江島の教会は個人でまわったので外観だけ。久賀島ではガイドが鍵を開けてくれたが(原則・非原則に関わらず)撮影は遠慮した。
頭ヶ島教会は、素朴で歴史のある旧五輪教会を別とすれば、私の最もお気に入りの教会となった。

頭ヶ島大橋頭ヶ島大橋を渡って中通島に戻る。橋の中通島詰めでレンタカーの記念撮影をし、島の中心部のすぐ手前から旧鯛ノ浦教会・鯛ノ浦教会に寄り道をする。旧鯛ノ浦教会と鯛ノ浦教会旧鯛ノ浦教会主屋旧鯛ノ浦教会鐘塔
旧鯛ノ浦教会(旧聖堂)は明治14年(1881)に創建、明治36年(1903)に建て替えられた木造瓦葺き。大戦後に増設された鐘楼には被爆した浦上天主堂のレンガも使われているとか。さらに潮風のため破損いちじるしく、昭和54年(1979)現在の聖堂(鯛ノ浦教会)が建てられた。旧聖堂は現在図書館として利用されているそうだ。

七目・青方は町役場(新上五島町)やホテル、スーパーが集まった島一番賑やかなところ。そのスーパー「カミティ」内の竹酔亭で名物五島ウドンを食し(あごだしの旨いウドンだった) 、十字架の縦棒を上(北)へ走る。青砂ヶ浦教会が次の訪問地。

青砂ヶ浦教会青砂ヶ浦教会は奈摩湾を見下ろす高台に立つ、赤煉瓦造り・重層屋根構造の堂々とした外観、内部は3廊式・コウモリ天井の正統的な様式と意匠の美しい天主堂である。青砂ヶ浦教会右廊部青砂ヶ浦教会堂主廊部青砂ヶ浦教会左廊部建物正面のバラ窓や縦長のアーチ窓、植物模様を施した玄関の扉もいい。ポインテットアーチ(尖りアーチ)と漆喰仕上げの幻想的な雰囲気の堂内に、カラフルなステンドグラスがよくマッチしている。青砂ヶ浦教会祭壇青砂ヶ浦教会聖歌隊席青砂ヶ浦教会・正面扉当時の神父が原書を取り寄せて指導し、五島出身の鉄川与助が設計施工。青砂ヶ浦教会側面完成明治43年(1910)。後の県内の離島を中心に多数建築された煉瓦造教会堂の構造・意匠の起点となったという。旧五輪教会、頭ヶ島教会とともに国指定重要文化財。
実は青砂ヶ原教会へは(教会が県道からすこし離れた高台にあったため)一度通り過ぎてUターンをしてきた。そこで“そのまま"南下し、奈魔湾の対岸にある冷水(ひやみず)教会に行き、また青砂ヶ浦側に戻って北上。曽根教会から、さらに江袋教会を目指した。

冷水教会冷水教会堂内ステンドグラス冷水教会は鉄川与助が27歳で独立して初めて自ら設計施工した教会。明治40年(1907)完成。小ぶりの木造建築、内部はやはり3廊式・尖頭アーチのコウモリ天井である。矢堅崎奈魔湾
奈魔湾の反対側に戻り、対岸の冷水、名勝の一つ矢堅崎を見ながら北進する。 曽根教会曽根教会堂内
曽根教会の建立は新しく昭和60年(1985)。鉄筋コンクリート造りの現代的な外観は十字架がなければ一般の住宅と間違えそうである。祭壇はシンプルで堂内の造りやステンドグラスの装飾もこれまで見てきた教会とはだいぶん異なる。
江袋教会側面江袋教会正面江袋教会は、実際に使用されていた木造教会では国内最古級(明治15年(1882)建立)だったらしいが、惜しいことに漏電による火事で全焼、平成19年(2007)に復元された。設計・施工者は不明。日本の家屋を思わせる外観(変形寄棟)とコウモリ天井(板張8分割)に特徴があった。
正面入口から祭壇とコウモリ天井2階聖歌隊席から祭壇とコウモリ天井江袋教会祭壇ステンドグラス2階聖歌隊席江袋教会から中通島最北端の津和崎までアト6㌔ぐらい。教会は3つあるがいずれも昭和4,50年代の建築。だからというわけではないが北上はここまで。今夜の宿がある若松島(中通島の南西にある隣の島、中通島とは橋で結ばれている)に向かった。
大曾教会途中、鉄川与助の教会をもう一つ見ていくことに。国道から離れた青方港の西のはずれにある大曾教会である。ステンドグラス趣向を凝らした列柱華やかで美しい祭壇
大曾教会の前身は明治12年(1879)に建てられた木造の教会。現在の大曾教会は大正5年(1911)に竣工した。正面中央部には八角形ドームを有する鐘塔が突出している。天井は4分割リブ・ヴォールト(コウモリ)天井。大曾教会屋根大曾教会側壁2列柱は四角柱の各面に半円形の柱を組合わせ、石造の台座と植物の葉状の柱頭を持つという凝ったもの。煉瓦の凹凸による装飾、色の異なる煉瓦を規則的に使用するなど壁面の意匠化も工夫されている。旧大曾教会は若松地区が大正4年(1915)を買い受けて修復し、土井ノ浦教会として使われている。

若松大橋 大曾教会を最後に教会めぐりを終わり若松島(の宿)に向かう。奈良尾の近くまで国道を下り県道へ右折、平成3年に開通したという若松大橋を渡る。若松港の近くにある3軒ある旅館の一つ「前川荘」に着いたのは4時半。お風呂や夕食にはまだ早い。女将さんの勧めに従い龍観山展望台に(車で)上る。龍観山展望台2龍観山展望台1
紺碧の海と緑の島々が織り成す龍観山展望台からの眺めは素晴らしく、女将さんに勧められなければこの景観を見逃すところだった。津和崎に行かなかったのは残念だったが、そのかわり龍観山展望台に来られたのだから、マイナスプラス・ゼロというところだろう。
泊まり客は私たちだけ。和洋二間の広い部屋を用意してくれた(おそらく料金以上)。夕食がまた豪華。クロダイと伊勢エビの舟盛り付き。伊勢エビを味わったのは伊豆の民宿以来、記憶では2度目である。妻が伊勢エビの解禁はまだでは?と問うと、たくさん獲って保存しておくという答え。大きなブリカマの煮付けも極上の味。檜風呂は心地よく、竹張りの廊下がまた気持ちよい大満足の宿だった。

翌朝9時、奈良尾を出港(フェリーふくえ)、穏やかな五島灘を真東へ、11時50分長崎港に着いた。
奈良尾を出港 奈良尾~長崎1奈良尾~長崎2 長崎港女神大橋女神大橋を通過
せっかく五島に来たのなら、最も古い木造建築で国指定重要文化財でもある「旧五輪教会堂」は見たい。旧五輪教会堂は久賀島(ひさかじま)にある。久賀島は福江島の北にある人口約600人、馬蹄形をした小さな島です。個人で島をまわるのは大変そうなので、福江港発着の“ツアー”を利用することにしました。このツアー『久賀島教会めぐり』は、小さな船会社(有限会社木口汽船)の副業的事業で、定期便を利用し、船員が船の運航時間の合間にガイドを務めるというシステム。大人2名そろえば成立、所要約4時間、料金は3500円/人です。

福江島~久賀島3福江島~久賀島2福江島~久賀島1ということで、10日13時35分福江を出港。船はこの3月20日就航したばかりの新造船(ひさかⅡ)、155総屯の小型フェリーでした。尾根尾島と多々良島の間を通って、14時10分島の南西にある田ノ浦港に到着。港といっても桟橋が一つあるだけの小さな港です。
早速、港においてあった車(ニッサンセレナ)で『教会めぐり』に出発。本日のツアー客は我々二人だけでした。フェリーはこのあと母港である奥浦(福江島、堂崎教会の近く)に行って、田ノ浦に戻ってくるのだそうです。あとで知ったことですが、ガイドになった方は敬虔なカトリック信徒でした。
浜脇教会浜脇教会から福江島最初に訪ねた教会はフェリーからも見えた浜脇教会。現在の建物は二代目で、昭和6年(1931)に竣工した鉄筋コンクリート造り(五島で最初)。外観は鐘塔と八角錘の尖塔がユニークです。内部は2列の円柱で主廊部と左右の側廊部を仕切り(三廊式)、天井は8分割リブ・ヴォールト(コウモリ)天井。全体に淡い色彩の明るい堂内です。牢屋の窄殉教地と記念聖堂初代の浜脇教会は明治14年(1881)に建てられたが、木造のため傷みが激しく、解体され、旧五輪教会(Old GORIN Church)として、五輪地区に移築保存されています。
二つ目の教会は、島の中央、久賀地区にある牢屋の窄殉教記念聖堂。ここは『五島くずれ』の出来ごとを今に伝える貴重な地です。説明板より・・・
明治元年(1868)長崎の浦上の地においてキリシタン迫害が始まると、多くの信者がいた五島各地でも厳しい弾圧と迫害が始まった。久賀島では、6坪ほどの牢屋に信者200名を八ヶ月の間押し込み、連日、悲惨な拷問が行われたという。その結果、使者39名、出牢後に死んだ者3名という悲惨な弾圧だった。その状況は外国使節団の知るところとなり、明治新政府の外交問題に発展し、ついに太政官布告によって明治6年キリシタン禁制の高札が下ろされ、信者達は信仰の自由を勝ち取った。
この歴史的場所である牢屋の窄一帯を殉教の聖地として永久に保存しようと、信者達が浄財を出し合い地主より買い受け、殉教の牢屋の跡に信仰の碑(殉教記念碑)を建立し、昭和59年には新聖堂も建立された。

キリシタン迫害や弾圧は秀吉や徳川の話と思っていたが、明治にかようなひどいことが行われていたとは知らなかった。維新政府がやったことは仏教の否定(廃仏毀釈)だけではなかった! キリスト教も否定した理由は「神道唯一神」の国策からだろうか?
現在の牢屋の窄殉教記念聖堂は、まさに、実際に牢屋があった場所に建てられている。

駐車場久賀地区から田ノ浦の反対側(北東)の蕨へ。目指すは海辺に建つ旧五輪教会ですが、海岸に沿った道はない。山中に作られた車一台がやっとという感じの狭く厳しい道を行く。途中、おばあさんが運転する車と辛うじて擦れ違った。旧五輪教会と五輪教会やがて「車両進入禁止」となり、教会はここから500㍍の歩き。道は悪くないがけっこうな上り下り、山道が苦手な客はどうするかと尋ねたら、海上タクシーが直接船だまりに着くのだそうです。
山中から海岸に出ると、船だまりの先に旧五輪教会五輪教会が(民家をはさんで)並んで建っていました。旧五輪教会
旧五輪教会堂は、明治14年(1881)浜脇の地に「浜脇教会堂」として建てられたもので、昭和6年(1931)に現地に移築された。以来50年あまり“現役”として使われてきたが、海辺に建つ木造建築であるため老朽化が激しく、昭和60年(1985)すぐそばに五輪教会が新築され“引退”した。 旧五輪教会(正面)旧五輪教会(側面) 移築に際し大きな改変がされていないことから、現存する木造教会堂としては最古の部類に入ると思われる。 旧五輪教会(背面)旧五輪教会(側面)
建物は木造瓦葺平屋建て。窓が教会特有のポインテッドアーチ型であるのを除けば、外観はまったくの和風建築の造りである。内部は三廊式の会堂、いわゆるコーモリ天井、ゴシック風の祭壇など定法どおりの教会建築様式に仕上げている。
大工棟梁は、久賀田ノ浦の平山亀太郎と伝わる。
旧五輪教会・五輪教会の海辺
長い禁教政策の下、弾圧と迫害に耐え、ようやく禁教が解かれた明治初期、五島各地には信仰の証として、教会堂が建設され始めた。旧五輪教会堂は、その当時の教会建築史を物語る、歴史的建築様式を持つ貴重な文化財である。

久賀島にある教会はこの3つ(4つ)。山道を「車両進入禁止」まで歩き、狭く険しい道を走り、蕨から田ノ浦に戻る途中、まだ時間があるというので、親切なガイド氏は「折紙展望台」に寄ってくれました。

折紙展望園地のサクラ折紙展望台から蕨地区折紙展望台から奈留島折紙展望台から久賀湾と東シナ海折紙展望台からの眺めは360度。久賀湾が陸地内部に深く切れ込み、湾の外には洋々たる東シナ海が広がる。目を東北に転ずると、奈留瀬戸をはさんで奈留島が横たわる。眼下に蕨地区。“ひょっこりひょうたん島”のような蕨小島は日本最小の有人島で人口は2人とか。旧五輪教会・五輪教会は蕨地区の山の向こうです。

奈留島と五輪地区の雑学…奈留島は彼の日本人メジャーリーガーのパイオニア・野茂英雄投手の御祖父母が住んでおられる(た)島です。また、歌手の五輪真弓はお父さんが五輪地区の出身らしく、お墓を移転したとき来島したそうです。

田ノ浦に着いてもまだ時間があったらしく、桟橋を素通りし、松井守男という画伯(洋画家)のアトリエの前を通り『つばき原生林(亀河原椿林)』へ。しかし、花を見るには入口からかなり山の中に入らなければならず、さすがに時間不足でした。なお原生の椿は丈が高く、街中でみるようにはいかないそうです。
ひさかとシーガル桟橋に戻るとフェリー「ひさかⅡ」がほどなく着船。船員に戻ったガイド氏が乗るフェリーは(福江港でなく)(母港の)奥浦に“帰る”ということで、私たちが乗るのとは違う船。その船、グラスボート「SEAGULL」もまもなく着船しました。シーガルからシーガルから久賀島
フェリーが一足早く奥浦に向かったあと、シーガルも出発(17:20頃)。夏は「海中公園周遊」に使われるとかで、船底に“観測窓”が並んでいました。出発前、乗組員の人が「見えなくなりますよ」と云ったのが何のことか思ったら、走り出すと(水しぶきで)窓の外が真っ白になることでした。
Seagullの船足はジェットフォイル(水中翼船)ほどではないがかなり高速(時速4,50㌔?)、豪快な航跡でした。フェリーのほぼ半分、20分で福江港に着きました。

サンセット(民宿から)サンライズ(福江港ターミナルから)夕食前くつろいでいると西の空が綺麗な茜色に染まっている。昨日、大瀬崎から海に落ちる太陽は見ることができなかったが、じゅうぶん美しい夕陽だった(6時30分)。ついでに右の写真は翌日、福江港ターミナルから撮った朝陽です(6時35分)。
熊本に所用のおり、長崎・五島を旅しました。6泊7日、内4泊は五島です。巡った島は福江島と久賀島、上五島の中通島、頭ヶ島、若松島。頭ヶ島と若松島は中通島と橋でつながっています。日程は、
・7日午後:長崎観光…オランダ坂、大浦天主堂、グラバー園など
・8日午後:長崎からフェリーで五島(福江島)に渡る
・9日   :福江島めぐり。堂崎教会、水の浦教会、高浜ビーチ、大瀬崎燈台、井持浦教会など
・10日午前:福江地区市街観光。福江城、武家屋敷通り、福江教会など
・10日午後:久賀島教会巡り。浜脇教会、牢屋の窄殉教地、旧五輪教会・五輪教会と折紙展望台
・11日   :福江島から中通島へ渡り、頭ヶ浦教会、青砂ヶ浦教会などを見て、若松島龍観山展望台
・12日   :中通島から長崎に戻り、浦上天主堂、爆心地公園、中津川に架かる石橋群などを見る
・13日午前:長崎観光の続き…日本二十六聖人殉教地、山王神社の一本柱鳥居と大クスノキ

それでは、9日9時-18時、レンタカーでまわった『福江島の自然と教会』です。
大小140あまりから成る五島列島で最大の島・福江島はおおむね四辺形、福江の街はその右辺の真ん中あたり。レンタカー店のアドバイス・・・堂崎教会から海岸沿いに西に向かう道は狭く険しい。コース中で食事ができるところは2箇所。その一つ、道の駅「遣唐使ふるさと館」に昼ごろ着き、また「大瀬崎の夕陽」を見るには先に鬼岳に行ったほうがよい・・・で、堂崎教会と鬼岳をそれぞれ往復したあと、“カウンタークロックワイズ”で島をまわることにする。一周約100㌔である。

堂崎教会堂崎教会は島の右上角、奥浦湾の海辺に建つレンガ造りの立派な教会だった。五島には約60のカトリック教会があるが、その中心的存在であり、内部はキリシタン資料館になっている。明治40年(1907)完成。ユネスコ世界遺産暫定リスト『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』に入っている一つ。五島ではその他、久賀島の旧五輪教会、奈留島の江上教会、中通島の頭ヶ島教会青砂ヶ浦教会、野崎島の旧野首教会の5つ。鬼岳から北の展望花、鬼岳で鬼岳から西の展望
鬼岳は島の東南部にある臼状火山群の一つ(標高315m)。山というより丘という感じで、四方の眺めがよい。展望所まで上がり、北に福江の街、西に島中央部の山々、南に溶岩海岸である鐙瀬(あぶんぜ)海岸を観る。

街に戻り、国道384号を西へ。
水ノ浦教会水ノ浦教会は岐宿地区、四辺でいえば上辺のほぼ中央にある白亜の美しい木造教会。海岸からはすこし離れたところにある。中には入ら(れ)なかったが、ネットによれば、堂内も白を基調とした三廊式・コウモリ天井の美しい作りである。長崎県下に多くの教会建築を残した鉄川与助の名作で、明治13年(1880)に建てられた(現教会は昭和13年に建替え)。遣唐使ふるさと館
島の西北にある道の駅「遣唐使ふるさと館」には予定どおり正午前に着いたが、ランチはバイキングのみというのでパス。一休み後、国道を南に向かう。
惜しかったのは(水ノ浦教会と同じ岐宿地区にある)楠原教会に行かなかったこと。国道を外れ島の内部に入らなければならないためだが、ガイドブックによれば、ゴシック様式レンガ造りは“時”を感じさせて風格があり、(水ノ浦教会に似て)白を基調にした清楚な堂内である。鉄川与助が3年の歳月をかけて建築した(明治45年)由
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遣唐使船と五島と空海
遣唐使は630年から894年までの265年間におよそ20回計画され、諸説あるが、内15回唐に渡ることができたという。前期(669年以前)は対中対等外交を目的としていた考えられ、渡海ルートは、博多から壱岐・対馬を経由し朝鮮半島西岸沿いの百済・新羅の領海を北上、(途中から高句麗領を避けるために)黄海を横断して山東半島に上陸する、北路であった。
後期(702年以降)は、百済・高句麗の滅亡と新羅との関係悪化により、渡海ルートは南島路・南路に変わる。また唐が大国化し、遣唐使派遣の目的は対等外交を放棄し唐の先進文化を受容することになる。この南路は、博多を出た後に五島列島の港々で風待ちをして一気に東シナ海を突っ切るルートであり、当時「美弥良久の崎」と呼ばれた三井楽(みいらく)地区の柏崎が最後の寄港地であった
空海は最澄とともに、延暦23年(804)の第16次遣唐使に随行し渡唐した。空海31歳、最澄38歳であった。柏崎には空海記念碑「辞本涯」が建っている(空海は残した書物の中で、出発することを「死ヲ冒シテ海ニ入ル」、出帆したことを「本涯ヲ辞ス」と記している) 。最澄は1年後、空海は2年後に帰国した。空海は玉之浦地区にある大宝に上陸。大宝寺を真言宗に改宗した。
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三井楽地区は島の西北部に突き出た半島全体で、その突端が柏崎。道の駅「遣唐使ふるさと館」は半島の付け根にある。柏崎の景観や三井楽教会も魅力があったが、半島をぐるっと周るのはかなり時間がかかりそうなので断念し、半島部の付け根を直進している国道をそのまま走ることにした。

トンネルを抜けると海岸に出た。出てすぐの高浜ビーチは実に美しい海水浴場だった。アセツ鼻と小長崎、二つの緑の小山の間に広がる白い砂浜。遠浅の砂浜の先はエメラレルドグリーンの海。東シナ海に面しているにしては波静かである。薄い島影は嵯峨ノ島。砂浜を歩いていると、リタイア後島に戻り、ボランティアで海水浴場の管理をしているという人が、あれから浜辺を見たか、と一方の小山(マゼノ鼻)を指さす。まだと応えると、是非見て行きなさい。魚籃観音(ぎょらんかんのん)が立っている。皆の豊漁と安全を祈って一人の漁師が立てたものだという。
高浜ビーチ   魚籃観音 魚籃観音から高浜ビーチ 魚籃観音から高浜ビーチ・頓泊ビーチ 魚籃観音から東シナ海
50mほどの高台から一望する高浜ビーチはなるほど素晴らしかった。小長崎の向こうの頓泊ビーチも、高浜ビーチに劣らず、美しい海水浴場のようだ。そして紺碧の東シナ海・・・、見過ごしてしまうところだった雄大な眺め、ボランティアの人に感謝感謝である。

大寶寺高浜ビーチをあとに、時に内陸に入りながら、西海岸を南下する。荒川温泉を過ぎ、島の左下角で国道と県道(50号)の分岐。五島一、二のビュースポットといわれる大瀬崎は県道へ右折するが、その前に、国道と県道の間の細い道を大寶寺に寄る。大宝は『遣唐使と五島と…』で書いたように、空海が唐から帰国したとき上陸したところ大寶寺は漁港のそばに建っていた。「西の高野山」といわれる。
大瀬崎灯台1大瀬崎灯台2大瀬崎灯台3、遊歩道展望台から分岐に戻り大瀬崎・大瀬崎燈台へ。途中、和風れすとらんの「ニューパンドラ」で昼食(13:50-14:20)。客は私たちだけ。道の駅「遣唐使ふるさと館」をパスした効いはあった。 大瀬崎灯台5、車道展望所から大瀬崎灯台4、車道展望所から
大瀬崎燈台。駐車場から1㌔近くのアップダウンだが歩道は整備されていた。東シナ海の荒波に洗われた断崖(大瀬崎)の突端に立つその姿は周囲の景観とあいまって真に絶景。いつも思うのだが、灯台は人工物に関わらず不思議とまわりの自然に溶け込み違和感を感じない。表面はタイル状仕上げで美しい。燈台への遊歩道をすこしそれれば展望台がある。また駐車場の手前の道路沿いに展望所が設けられ、そこからの構図も、断崖に立つ燈台の様子がよく分かってなかなか面白かった。
周知板『大瀬崎燈台』から引用する-----五島列島南端に位置する福江島最西端の大断崖の地、ここ大瀬崎は、七世紀から八世紀にかけて中国に往来した遣唐使船の通路でもあった。
ここに洋式灯台が点灯したのは明治12年12月15日である。初代の灯台は白色、円形、コンクリート造り、第一等フレネル閃光レンズを有する第一級の灯台であった。大戦時の被害で寿命をちぢめ、昭和46年に建てかえられ、灯籠は移設されて船の科学館に保存されている。
灯台は200万カンデラの大光力を誇り、停電時は自家発電装置が自動的に作動し、灯火を守り続ける。
灯台の高さは地上~頭部16㍍、海面~灯火83㍍。光達距離は23.5海里(約43.5㌔㍍)に達する。
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大瀬崎から東海岸と東シナ海大瀬崎から東海岸大瀬崎(鍋ヶ浦)灯台周辺は高さ100mから150mの切り立つ断崖である。その荒々しい景観は南の大宝崎から北の黒瀬崎まで20㌔に及ぶというが、灯台からは黒瀬崎側は望むことができない。
ところで、大瀬崎は沖縄を除き最も遅く日が落ちるところ。レンタカー店の人は少々時間制限をオーバーしてもかまわないといってくれたが日没は6時半過ぎ、我々のタイムリミットは6時。遅くなりすぎるので今回は諦めた

井持浦教会・ルルドの聖母井持浦教会玉之浦カントリーパークの充電スタンド井持浦レンタカーは電気自動車。島内4箇所という充電スタンドの一つが設置された玉之浦カントリーパークで充電し、玉之浦カントリーパークから歩いても行ける井持浦教会ルルドを見る。
充電には苦労した。原因は2基ある充電器の一方が故障していたためだが、四苦八苦している間に女性3人グループも充電に立ち寄り、操作の方法などずいぶん助けられた。急速充電でも30分ぐらいかかる。椿見物や夏の観光シーズン、国際トライアスロン大会が開かれる6月は問題だろう。
井持浦教会は落ち着いたレンガ造りの大きな教会で、明治30年(1897)の建設。ルルド(聖母出現の地)を模した洞窟が作られている。日本最古のルルドらしい。また、本場から取り寄せたという“奇跡の泉水”もあり、すこし口に含んだ。
車の充電に思いのほか時間を費やし、帰路は(急カーブが多い南の海岸線(国道)は避け)島中央部の県道(27号)を一気に走り抜けて福江地区市街に戻った。


続いて、10日午前、徒歩でまわった『福江地区の市街観光』です。
福江城の石垣とお堀まず福江城跡。立派な石垣と綺麗なお堀が残る風情ある城址だった。大手門?から城内に入る。城内は県立五島高等学校の敷地、城門が正門という風格ある学校である。ちょうど通学時間、門をくぐる生徒もどこか誇らしげであった。五島高校校舎(福江城内)五島高校正門(福江城城門)
福江は江戸時代、五島氏(旧宇久氏)が治めた五島藩の城下町。五島氏は居城であった江川城を焼失して以来、久しく石田陣屋で過ごしていた。幕末になり、五島近海に外国船(黒船)が出没し始めると、五島藩は幕府に築城願いを出したが、約半世紀の間築城許可が下りなかった。幕府はやっと嘉永ニ年(1849)、「海岸防衛をせよ」と築城許可を下す。福江城は14年の歳月と工費2万両(10億ぐらい?)を費やし文久三年(1863)に完成した。石田の浜にちなみ石田城と通称される。
築城当時は三方を海で囲まれた海城であった。石垣は野面積みで自然石を積み上げている。かっては、城の石垣は外海に面し、波が打ち寄せ、潮風に吹かれる松が風情を添えていた。


武家屋敷通り武家屋敷の石垣福江城の西南にある武家屋敷通り。寛永十一年(1634)、当時の藩主が各地に散在していた家臣を福江城下に強制的に移住させたときに造られた武家屋敷通りが、今なお、福江地区内の各所に残っている。その中で、この通りは最も保存状態が良く、中級階級が武士が住んでいた通りだそうである。上級武士の屋敷は今の商店街にあった。武家屋敷通り松園邸ニホンタンポポ?(武家屋敷通りふるさと館内)石灯篭(武家屋敷通りふるさと館内武家屋敷通りふるさと館
石垣の塀が独特でなかなか面白い。
約400㍍続く石垣は、溶岩塊の石垣を積み上げ、その上にこぼれ石といわれる丸石を積み重ね、両端は蒲鉾形の石で止められ、全国的に見ても類例をみない造りになっている。
現存する屋敷はふるさと館と松園邸だけ。松園邸は見学もできたようだが、門前だけで遠慮した。

福江教会から繁華街を抜けて明人堂・六角井、福江漁港常灯鼻へ。
福江教会福江教会は五島の教会群の中心的存在。今の建物は昭和37年(1962)のもの。訪れたのは日曜のちょうどミサが終わった時、信者の方々で大賑わいだった。明人堂ツバキ1
明人堂六角井…天文九年(1540)、当時、東シナ海を舞台に貿易商として活躍していた明国の王直は、通商範囲を拡大するため福江(当時は深江)に来航した。財政が逼迫していた領主宇久盛定は喜んで通商を許し、江川城下の高台の地(現在の唐人町)を居住の地として与えた。六角井ツバキ2その際、飲料用水、船舶用水用として造ったのが六角井であり、明人堂は王直らが航海の安全を祈った廟堂跡地といわれている。
王直はまた平戸にも居館を構え、五島を拠点に倭寇の頭目として東シナ海狭しと活躍した。
福江漁港と常灯鼻ツバキ3 ※倭寇というと海賊のイメージが強いが、当時の明国の海禁(鎖国)政策により、密貿易を行う者はすべて海賊とみなされていた。彼らは全てに対して海賊行為を行っていたわけではない。
最後に、港に出て対岸の常灯鼻を見、食堂「うま亭」でお昼。店は“ジモピー”の客で繁盛していた。常灯鼻は福江城を築く際の防波堤と灯台の役割のため築かれたもので、150年の星霜を重ねた年代もの。福江城と同じ、加工していない石を積み上げる「野面積み」工法で造られている。漁師さんたちは今でも、港湾に入るとき、この常灯鼻の明かりを目指すのだそうです。
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