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鎌倉七切通で唯一残っていた『大仏切通』を歩いた。残っていたわけは簡単、“通行禁止”だったからである。ところがTV番組の中で、渡邊(黒田?)アナウンサーがその大仏切通を歩いている(NHK『歴史ヒストリア』11月28日)。通行できるようになった? それともTV局だから特別に通行を許可した? ネットを調べる。どうやら去年の11月に通れるようになったらしい。さっそく出かけたという次第。
火の見下バス停スペーサー大仏切通はバス停でいえば、大仏隧道の鎌倉側の『大仏坂下』と藤沢側の『火の見下』の間二駅。ゴールは賑やかなほうがよいから、鎌倉駅からバスに乗り『火の見下』で下車する。京急6番、大仏止まりもあるから注意。江ノ電バスもある。切通は鎌倉行のバス停のすぐそばの路地を入る。切通を示すそれらしきものは何もない。
大仏切通入口手前1大仏切通入口手前2(モミジ)路地を右に曲がった角の家の鉄柵に文字はほとんど見えないが、“それ”と暗示する木の板がぶら下がっている。その家の奥は山道。 切通始点やぐら・切通分岐やぐらスペーサー鮮やかに紅葉した高いカエデの木が目を引いた。ほどなく立派な木の階段があり、それを昇るのが切通コースかと思ったら、階段の上は行き止まりだった。大きな岩に四角く横穴が穿ってある。「やぐら」、鎌倉の随所で見られる墳墓跡である。階段下に戻り、右の山道を登る。
切通1切通2切通3切通4切通5
大仏坂下切通終点切通9切通8切通7切通6
道はすぐ両側に岩の壁が迫る切通しとなったが、それは全コースの1/3程度で、あとは林の中の道が続き、2,30分後には大仏坂の入口に出た。大仏坂側は、ここから北鎌倉駅までの裏大仏ハイキングコースの始点(終点)でもある。切通しだけではちょっと物足りないのでハイキングコースとセットで歩くのがよいが、今日は久しぶりに長谷(高徳院)の大仏を拝みに行くことにした。
ところで、大仏切通は国指定史跡らしい。コース半ばに身の丈を越える標柱が立っていた。修復のさい立てたのだろう、まだ新しい。大仏切通の不通期間は私の知る限りでも2年ぐらい。ずいぶん長い間放っておいたものだが、国と鎌倉市の間で費用負担か何かで揉めたのだろうか? 標柱もコースの途中でなく出入口にあったほうがよい。もっと気の利いたものを。

長谷大仏1スペーサー長谷大仏2長谷大仏3長谷大仏4長谷大仏5スペーサー高徳院の境内は、月曜日だがたくさんの観光客で賑わっていた。与謝野晶子が『美男にておわします』と詠んだ大仏様を鑑賞する。
『鎌倉大仏因由』によれば、阿弥陀仏。庶民の浄財を集めて作られた点、東大寺の大仏とは異なる。初めは木造、大風で倒れ、再建のさい青銅の像となった(建長四年、1252年)。原作者不明。大仏殿は初建以来たびたび復興されたが、明應七年(1497年)海潮で流失以後は復興せず、露像となった。関東大震災(大正12年)では台座が崩れ大仏は前に傾いたが倒れなかった。大正14年と昭和35-36年、耐震施工が成され、現在では、大地震のさい物体と台座が離れる免震構造が採られている。総高13.35m。高徳院のほうは宗祖:法然上人、開宗:承安五年(1175)だった。
由比ヶ浜スペーサー高徳院を出たあとは、長谷駅を通り過ぎて、まっすぐ海岸に出、若宮大路を鎌倉駅まで歩く。距離3㌔ちょっと、お腹は空いていたが、結局どこにも入らずに京急新逗子へ。そこで(ドトール)、やっとミラノサンドをお腹に入れた。
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ブラリと家を出て京急富岡から電車に乗る。どこといって行くアテはない。上大岡で特急を待ち合わせる。南太田でも急行と特急の2本を待ち合わせた。最近、羽田行きの急行が増発され、南太田で“2”本待たせられることがしばしばである。横浜(駅)以北はほとんど行動圏外である身にとっては有難みの薄い増発である。(富岡でも2本待たされることがある)
特急をやり過ごし、日の出町で降りた。駅前の交差点にあったレストラン(不二家)が解体中だったのにすこし驚き(作業はほとんど終盤)、野毛方面へ。野毛の交差点を左に曲がれば動物園や伊勢山皇大宮、ちょっと遠いが掃部山公園だが、飲食店が並ぶ野毛小路を桜木町駅方面に進む。
旧不動産銀行横浜支店スペーサー大岡川に出て左折、弁天橋を渡り本町通りに出る。通りの北側(海側)は様子がすっかりが変わってしまった。昔(30年前後前)の名残りを留めているのはバルコニーがある横浜銀行旧本店、というより、私にとっては不動産銀行横浜支店という方が懐かしい(写真は昨年11月のもの)。生検コト生糸検査所(現市の第二合同庁舎)は、外観を煉瓦風に似せてリニューアルされたが昔の重厚さはない。
旧海岸通団地スペーサーその生検の北隣りにひっそりと建っている(いた)のが海岸通五丁目団地。3,40代のころ、そこに10年近く住んでいた。古く狭いところだったが、何せ横浜の中心地。山下公園や伊勢佐木町は散歩の圏内、中華街にも歩いて行けた。子供の学校は100年以上の歴史がある本町小学校。野毛の飲食店や商店など親の職業は多彩で、父兄会はたいへん面白かったと、妻はときおり当時を懐かしむ。現在建替えが進んでおり、9棟のうち1,2棟を残すのみである。
日本郵船ビル1日本郵船ビル2ここまで来れば行く先は決まったようなもの。海岸通を大さん橋・山下公園へ向かう。途中、横浜郵船ビル(現日本郵船歴史博物館)を見る。何時見ても何度見ても、見飽きることのない気品と風格を兼ね備えた建造物である。一つ隣りは「クイーンの塔」で知られる横浜税関だが、両者の間に県警本部が周りを威圧するように建っている。横浜一、二の目抜き通りに建てる必要があったのかと思う。20階建ての庁舎を見上げていると、ヴォーッと汽笛の音がした。大型の客船が入港あるいは出港しているらしい。「象の鼻パーク」に急ぐ。

みなとみらい21、象の鼻パークから象の鼻パークから大さん橋象の鼻パークに来てみると、『飛鳥Ⅱ』が着岸したところだった。向こう側の桟橋にも客船が1隻停まっている。これはラッキー。もっとも、この前(2年前)は3隻が同時に停まっていたが(飛鳥Ⅱ、ふじ丸、PACIFIC VENUS)。 ターミナル1階から「オーシャン・ドリーム」ターミナル1階駐車場
大さん橋へ。大さん橋ターミナルはこれまで“クジラの背”といわれる屋上しか行ったことがなかったので、1階駐車場に行ってみる。もう1隻は『OCEAN DREAM』というパナマ船籍の客船だった。3万5千㌧、飛鳥Ⅱより小さい。 ターミナル2階“鯨のお腹”スペーサーエレベーターで2階へ昇る。いわば“クジラのお腹”で、レストラン・売店、出入国ロビーがあるターミナルの中枢。 大さん屋上“鯨の背”スペーサーここも初めてだが、とくに用事はないのですぐ“クジラの背”に出て、飛鳥Ⅱを撮影する。
飛鳥Ⅱ…郵船クルーズ(日本郵船の子会社)所有、母港横浜、50,142総㌧。海外クルーズ途中の寄航らしく、「下船は入国手続きが終わる345頃」という船内アナウンスが“日本語”で流れていた。翌朝8時に出港するらしい。海外はもちろん、国内クルーズも私には無縁の世界だが、ずいぶんあわただしいスケジュールである。
OCEAN DREAMとベイブリッジスペーサー飛鳥Ⅱとみなとみらいスペーサー飛鳥Ⅱとランドマークタワースペーサー飛鳥Ⅱと“鯨の背”スペーサー山下公園から大さん橋
山下公園から大黒埠頭スペーサーその後、山下公園にも足を延ばしたが、大さん橋に思いのほか長い時間いたので、公園から夕陽に輝くOCEAN DEREAM・飛鳥Ⅱとベイブリッジ・つばさ橋を撮っただけで、横浜公園~伊勢佐木町経由日の出町駅に戻った(約3㌔)。
熊本から横浜の帰り、瑠璃光寺を訪ね、西の京と呼ばれる山口市内を歩いた。

その名も優雅な瑠璃光寺は大内氏の栄華を今に伝えるものの一つですが、その歴史、五重塔との関係は少々複雑です。
瑠璃光寺スペーサー大内氏は元々周防の豪族だったが、中興の祖といわれる24代弘世(1352-1380)が、室町時代(1336-1573)、周防・長門の守護大名となり、繁栄の基礎を築く。次代義弘(1380-1399)は、さらに豊前・筑前・石見・安芸も治め勢力を拡大するが、それに危機感を持った足利義満(1368-1394)によって排除される(応永の乱。戦死)。治世・文学に秀で、信仰心も厚かった義弘が、現在、瑠璃光寺がある場所(香山公園)に建てた寺院の一つが香積寺で、その境内に弟盛見(26代)が、兄義弘の菩提を弔うために五重塔を建立した(1442年落慶、但し盛見は造営中に戦死)。いっぽう、瑠璃光寺(旧名:安養寺)は大内氏の重臣、陶氏(すえし)が仁保というところに建てたもの(1471年)。関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は家康によって萩に移封され、香積寺を萩に引寺するが(1604年、実際は建築資材の流用のための解体)、五重塔は解体を免れる。その跡地に、仁保から瑠璃光寺を移築(1690年)、これが現在の瑠璃光寺である。ちなみに大内氏は陶氏の謀反が引き金となって滅亡します(1557年)。
つまり、五重塔は「香積寺の五重塔」だったわけです。瑠璃光寺の伽藍と五重塔が何となく一体感がないのは、このような変遷からでしょうか?

瑠璃光寺五重塔スペーサーつぎに五重塔。日本三名塔の一つに数えられ(あと2つは法隆寺五重塔と醍醐寺五重塔、醍醐寺も行ったことがあるが 惜しいことに よく覚えていない)日本で10番目に古く(嘉吉二年(1442)建立)、国宝である。境内の外、池を前に小山を背に立つ。以下、説明の引用・・・高さ31.2m。軽快な桧皮葺で軒の出は深い。塔の身部は上層にゆくにつれ間をつめているので、塔の胴部が細く見えすっきりした感じである。いっぽうで、初重の丈が高く柱が太く、二重目には縁高欄もあるので安定感もある。室町時代のものとしては、装飾の少ない雄健なものである。
※瑠璃光寺五重塔は日本で十番目に古いということで、それより古い塔を調べてみた。一番古いのはもちろん法隆寺(31.5m)。二番目は室生寺、奈良末期から平安初期の建立、国宝、但し 1998年9月の台風でそばの杉の木が屋根を直撃 大修理が行われた、高さは16.1m。三番目は醍醐寺、952年建立、高さ38.2m、国宝。以下…海住山寺(京都府相楽郡加茂町、1274年、17.7m、国宝)、明王院(福山市、1348年、29.1m、国宝)、羽黒山(1372年、29.4m、国宝)、厳島神社(1407年、重文)、興福寺(1426年、50.8m、国宝)、法観寺(京都、1440年、38.8m、重文)。こうみると、瑠璃光寺五重塔は高さでも他にひけをとらない。日本一高い五重塔は東寺の55m、1614年の建立。二位は興福寺である。奈良の薬師寺東塔は三重塔、730年建立、高さ33.6m。

瑠璃光寺五重塔…昼のスナップ
スペーサー①池を前に小山を背に立つ五重塔②五重塔・丈の高い初重③五重塔・深い軒の出④五重塔・檜皮葺の屋根⑤五重塔と紅葉
①木々に囲まれ池の畔に静かに立つ五重塔、なかなか美しい。②時の流れを感じさせる風格のある初重、阿弥陀如来像と大内義弘像を祀ってあるという御堂の中は見ることができなかった。③深い軒の出(垂木)。④檜皮葺の屋根、裏の小山から撮影。⑤紅葉と五重塔

瑠璃光寺・大念珠瑠璃光寺・回廊と鐘楼と五重塔瑠璃光寺境内
山門をくぐり境内へ。さほど広くない。回廊、鐘楼、本堂を一通り見て歩く。目を引いたのは大念珠(写真)と人生訓タオル。大念珠は8個の珠(たま)を一つづつ落として煩悩を取り除くという趣向。アイデアマンのお坊さんが考え出したものだろうか? 1個づつ落とすのはけっこう難しい。
人生訓タオルにいわく『人生は七十才より…七十才にてお迎えあるときは今留守と言え 八十才にてお迎えあるときはまだまだ早いと言え 九十才にてお迎えあるときはそう急がずともよいと言え 百才にてお迎えあるときは時機を見てこちらからボツボツ行くと言え』
瑠璃光寺は山号「保寧山」、宗派は永平寺と総持寺を大本山とする曹洞宗です。

ライトアップされた五重塔
①②③④⑤スペーサー三脚を持ってこなかったので“手ぶれ”に苦労した。参考までにシャッター速度は、①0.5秒(520) ②1秒(529) ③1秒(526) ④1.5秒(536) ⑤1.5秒(543

萩往還1萩往還2寺前の東京庵という店で“名物”の蕎麦寿司を食べ(ふつうの蕎麦の方がおいしい)、同じく寺前の御堀堂で“名物”の外郎を求める(外郎は名古屋や小田原にもあるが山口のが一番好きである)一の坂川スペーサー
その後、五重塔のライトアップまで時間があるので、萩往還のほんの“さわり”を歩き、山口市内を歩く。「西の京」と呼ばれる山口だがそのイメージは薄く、「鴨川」になぞえらたという一の坂川もふつうの川だった。湯田温泉(週末の割高値段で泊まれず、宿は山口インターのビジネスホテル)を歩けば、京の雰囲気を味わえたのかもしれない。SL「やまぐち」号(旧:貴婦人)の運転も11月14日までだった。 山口ザビエル記念聖堂スペーサー
夕食は瑠璃光寺の前の案内所で教えてもらった山口ザビエル記念聖堂のレストランに行ったが、イベントがちょうど終わったときで(写真)、人が溢れていた。割安・美味のバイキングを腹いっぱい食べる。
翌日(2日)、新東名・東名を走行中、道路情報表示に「中央道笹子トンネル“災害”で通行止め」とある。地震や大雨があったふうでもなく不可解に思いつつ深夜帰宅したが、ニュースで“災害”が「ボルトがはずれた天井板落下」だったことを知って驚き、中日本高速道路社長の『関係する皆さまに“ご迷惑”をおかけし申しわけありません』と(責任を負わないよう注意深い)コメントには感心した。
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