上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
大山山麓の古刹(大山寺と大神山神社)を巡るのは二度目。前回は雪が残る2月だった。一つの山に神社と寺院が併存しているのは、その時のブログにも書いたが、明治維新政府による「神仏分離令(廃仏毀釈)」の産物である。
「神仏分離令」は天皇の神権的権威の確立のために神道を保護し、仏教を抑圧する宗教政策であり、神道の“国教化”推進である。しかし、その実態は“抑圧”という生易しいものではなく、夥しい数の寺院・仏像など貴重な文化財を容赦なく破却する仏教否定だった。バーミヤンの磨崖仏がイスラム原理主義者タリバンによって爆破されたとき日本人の誰もが抗議したが、日本でも同じこと、いやそれ以上のことが近世において行われたのである。 かろうじて破壊を免れたのが、例えば国宝羽黒山五重塔。これは維新政府のお目こぼしでなく、地元信奉者の熱き思いによる結果であった。
疑問の一つは、貴重な文化財が壊されていくさまを見、神職の指導者・権威者たちはどう行動したかということ。積極的に推進したのか、異を唱えたのか、あるいは静観していたのか。次に、廃仏毀釈は地方ほど厳しく行われ、法隆寺や延暦寺など中央の大寺院に及ばなかったかのは何故かということ。もっとも奈良興福寺は例外だったが。建長寺や円覚寺など鎌倉の寺院への影響についても知りたいところである。
神仏分離の結果、神社の社殿はその山の高所、眺めも良い一等地にあり、(破壊されなかった)寺院の伽藍は山麓、低い所に残されるか移されるかした。ここ大山(だいせん)の大神山神社と大山寺しかり丹沢大山(おおやま)の大山阿夫利神社と大山寺(おおやまでら)しかりである。羽黒山もその山頂に建つのは出羽神社三神合祭殿である。 また、もともと寺院の建物が神社の所有になったものも多い。例えば、壮大な権現造りの大神山神社奥宮(国の重要文化財)は元は大山寺の本殿だった。その意味では、仏教文化財(の一部)は残されたともといえる。


大神山神社の奥宮と神門は、以前は大山寺本堂と大山寺本坊西楽院の表門だった。大山寺はかって山中に多数の御堂と寺院を配し西日本に於ける天台宗の一大拠点であったが、神仏分離・廃仏毀釈により衰退・頽廃し、四堂、本堂(旧大日堂)・阿弥陀堂・観音堂・護摩堂を残すのみである。
写真1:本堂写真2:本堂と鐘楼写真3:観音堂と白狐写真4:大山寺紅葉スペーサー阿弥陀堂以外の3つの御堂は本堂境内にあり、阿弥陀堂はそこからかなり離れた大山夏道登山道の脇にポツンと建っている。
写真7:大山寺阿弥陀堂3写真6:大山寺阿弥陀堂2写真5:大山寺阿弥陀堂1スペーサー阿弥陀堂が(大山寺のものとして)“救われた”のは、その建物の造りが神社にはあまりにも似つかわしくなかったのか、あるいは文化財的価値から取り壊すのはもったいないと判断されたのか?
写真1:大山寺本堂、旧大日堂。開山は奈良時代養老年間(約1300年前)。御本尊は神としての大智明権現、仏としての地蔵菩薩。1100年ほど前、慈覚大師の教えにより修験道から天台宗に改宗。現在の本堂は昭和26年に再建されたもの。 写真2:本堂と鐘楼。 写真3:本堂舞台から観音堂と白狐。本堂は観音堂より一段高いところにあり、本堂の前に清水寺のように“舞台”がある。御本尊は十一面観世音菩薩。御堂の前に座っている一対の白狐は観音様のお使いとか。寺と狐、珍しい取り合わせだが、これは神仏習合の名残り。この観音堂は正確には下山観音堂という。大神山奥宮の横にある神社も下山という名前だが・・・ 写真4:大山寺の紅葉。屋根は護摩堂。 写真5~7:大山寺阿弥陀堂。杉木立の中に静かに佇む阿弥陀堂は実に趣きのある建物で、見る者を侘び・寂びの世界に引き入れる。初めて見た3年前、阿弥陀堂は薄い霧に包まれていて、いっそうその印象を強くした。
阿弥陀堂はもともと常行堂(じょうぎょうどう)として平安初期(藤原時代)に建立されたものといわれ、山津波で倒壊し、室町末期の天文21年(1552)、古材を利用してこの地に再建された。明治に行が行われなくなると、阿弥陀を祀るための堂(阿弥陀堂)と呼ばれるようになった。本尊は、天承元年(1131)、仏師良円により作られた木造阿弥陀如来座像(266㌢)で、その両脇には観音と勢至の両菩薩が安置されている。建物、仏像とも国の重要文化財に指定されている。

大神山神社本社は米子市尾高というところにあり、同じ米子市でも奥宮とは相当離れている。直線距離でも10㌔以上、こんなに本社(本堂)と奥宮(奥の院)が離れている寺社は全国でも珍しいであろう。また、本社(本堂)は奥宮がある山の麓にあるのがふつうだが、大神山神社は市街地にある。これは神仏分離が生んだ地理的不自然さであろう。
写真8:石畳の参道スペーサー大山寺本堂から山門には戻らず、脇道から石畳の参道に出、大神山神社奥宮へと歩く。 写真9:大神山神社神門1写真10:大神山神社神門2写真11:大神山神社神門3スペーサー
写真8:自然石を敷きつめた参道。木立の中を700㍍つづく。たいへん気持ち良い道。 写真9~11:神門。石段が絶妙にカーブしており、門が徐々に姿を現すところがよい。この門は逆さ門とか後向き門とも呼ばれている。大山寺本坊西楽院の表門ここに移築したとき前後・表裏が逆になった。故意か、ミスか。何故そんなことになったのだろう。
写真12:大神山神社奥宮1写真13:大神山神社奥宮2スペーサー写真14:大神山神社奥宮3写真15:大神山神社奥宮4スペーサー写真16:大神山神社奥宮5スペーサー写真17:大神山神社奥宮6
写真18:大神山神社御神体(大山)スペーサー写真19:下山神社1写真20:下山神社2スペーサー写真12~17:大神山神社奥宮。左右に長い翼廊をもつ権現造りの建築。文化二年(1805)の建立と云われる。現在の御祭神は大己貴神(おおなむちのかみ、大国主神のこと)だそうだが、そうなると、大日堂に移祀された御本尊の“神の部分(大智明権現)”はどこにおられるのだろう? 政争には巻き込まれたが、建物自体の壮大健美は今も(昔も)変わらない。国の重要文化財。 写真18:大神山神社奥宮はもとは大山寺本堂、もともとは僧が修験のために大山に登り、その道場としての遥拝所だった。 写真19~20:下山神社備中郡司渡邊照政公は、元徳二年(1330)、大神山神社参拝の帰路、奇遇に遭い不慮の最期を遂げた。人々がこれを憐れんで大山下山の地に建てた「下山善神」が起源。以後数々の霊験があり多くの武将が信仰した。現在の社殿は代々の信仰が厚かった石州津和野の領主亀井隠岐守矩貴公が文化二年に再建したもの。複雑な屋根構造は八棟権現造りという。祭神は渡邊照政命。国の重要文化財。
蒜山SAスペーサー石畳の参道を旅館・商店街に戻る。大山橋を渡って(橋の袂にモンベル大山店がある)阿弥陀堂へ。阿弥陀堂から「朝霧山荘」に帰る途中、雨が降り出す。一時あがったが、翌日は未明からかなり強い雨。止みそうになく、大山登山は諦める。雨は山陰側だけで、米子道蒜山SAは曇り、山陽側(中国道)は陽射しが出ていた。
スポンサーサイト
今日(21日)もいい天気。9時前、ツインリーブスホテル出雲を出る。今日の目的地は大山の麓だが、3年前の山陰・北陸の旅ではパスした美保関燈台に寄ることにした。私は灯台を見るのが好きである。美保関燈台が、日御碕燈台と同様、日本の灯台50選/世界の灯台100選と分かってからは、一度は見てみたいと思っていた。
宍道湖(パノラマ)スペーサー見覚えのある雲州平田の街を通り、宍道湖北岸(R431)を快走する。対岸は低い山なみで空が広い。 朝霧の宍道湖スペーサーすこし高くなった陽の光に湖面がきらめく。まだ、朝霧が残っている湖面もある。シジミ漁りだろうか、舟が一艘。なんとも心なごむ風景である。見たことはないが、宍道湖の夕陽はとりわけ有名。朝な夕なに、このような景色に接する人はそれだけで幸せであろう。
松江市街を抜け(松江城がチラッと見えた)、今度は中海の湖岸。中海は境水道で日本海(美保湾)とつながっている汽水湖。実は、宍道湖も大橋川で中海とつながっているので、汽水湖だが塩分濃度はだいぶん薄い。 境水道から美保湾に沿った海岸道路(しおかぜライン)を走り、出雲市から66㌔、島根半島の先端地蔵崎の駐車場に到着。

地蔵崎から大山スペーサー車を降りて、まず美保湾越しに伯耆大山の姿を拝む。山頂部は厚い雲に覆われていた。日本海に面した独立峰、その頂を見せることは稀であろう。岩木山しかり、鳥海山しかり。周回歩道(距離はいくらもない)をお目当ての美保関燈台へ。 地蔵崎遥拝所スペーサー
途中、海に向かって鳥居がある。沖合の島(というより岩礁)「沖之御前」の遥拝所だった。鳥居の前に立つと、島が正面に見える。島には、灯台と鳥居が建っているようだった。すこし進んで真下を覗くと、そこにも波に洗われる岩礁「地之御前」があった。
美保関・地蔵崎・美保之碕エトセトラ・・・島根半島の最東端に位置するこの岬は、古くから「美保之碕」と呼ばれていたが、この海域を往来する船舶の事故が絶えなかったので、航海の安全祈願のために多くのお地蔵さまが岸壁や波打ち際に奉納されるようになったことから「お地蔵さまがある岬」ということで、中世以降から「地蔵崎」と呼ばれようになった。  出雲国風土記の国引き神話では、「三穂の碕」と呼ばれ、出雲国の創始者大国主命が能登半島から切り取って引いてきたと伝えられている。日御碕は朝鮮半島から引いてきた。  この鳥居の中央約4㌔の海上に浮かぶ島を「沖之御前」、眼下に横たわる島を「地之御前」といい、共に事代主命(美保神社の祭神、俗にえびす様)の魚釣りの島として伝えられていることから、現在も美保神社の境内となっている

中古代の出雲大社(想像図)スペーサー能登半島や朝鮮半島を引っ張ってくる…神話の世界はナント雄大でロマンに溢れているではないか。9月のNHK「100分de名著」は「古事記」だった。端的にいえば、日本書紀は大和朝廷(権力側、当時の天皇)の正史で、過去より現在未来の国家を意識。出雲神話はほとんど出てこない。一方、古事記は大和朝廷に“国譲り”した出雲国を中心とした内容で、語り部稗田阿礼の口誦を太安万侶が筆録した(ものといわれる)。敗者にも目を向け、現在よりも過去の物語を重視。半分は出雲神話だそうだ。 大国主は天照大御神(伊勢神宮の主祭神、神道の最高神、皇室の始祖)が派遣した建御雷(タケミカヅチ)に一つだけ望みを言った。『この出雲国を献上するにあたり、高天ヶ原に届くほど高く、地底に届くほど立派な柱を持った住まいを造っていただければ、そこに隠れておりましょう』 建御雷はそれを受入れた。これが出雲大社の起源である。すなわち出雲大社は大国主命の“隠居所”だったわけである。それは高さ48m、階段の長さも109mという巨大なものであった。  歴史をどちらの立場から見るかによって、例えば 太平洋戦争を軍人側から見るか/文人側から見るか、侵略者側から見るか/被侵略者側から見るかによって、その内容は大きく異なる。
また、仏教の教典は経典(例えば般若経)、キリスト教は旧約聖書と新約聖書、イスラム教はコーランであることを知らない人は少ないだろうが、神道は、と問われて答えられる人は稀だあろう。 池上彰「試練を乗り越える信仰入門」(文芸春秋2011年5月号)の中の安蘇谷正彦氏(國學院大學前学長)によれば、神道には正式な教典というものはなく!、あげるとすれば、日本書記、古事記、万葉集、風土記などとか。日本書記や古事記が教典とは意外だが、万葉集に至ってはピンこない。 ちなみに、この「試練を・・・」、世界の三大宗教+神道について、手っ取り早く知るにはたいへん良い読み物です。


美保関燈台1美保関燈台2美保関燈台…塔高は低く(14m、海抜70mの断崖に立つので塔自体は高くする必要はない)、どっしりと落ち着いた感じで、ひときわ目立つ回廊が美しい。海面からの灯高は83m。ちなみに日御碕燈台は44mと63m。初点灯は山陰最古で、明治31年(日御碕は明治36年)。2007年、灯台として初めて登録有形文化財に登録された(その後 2010年に犬吠埼燈台が登録有形文化財)。建設当初の名は地蔵崎燈台だったが、地蔵崎の名称が全国的に多いことから、昭和10年に美保関灯台と改称された。
隠岐の島展望デッキ隠岐の島遠望隠岐の島展望デッキから、はるかかなたの「隠岐の島」を見る。長々と続く島影(島前?、とうぜん)と、それから右にすこし離れて小山のような島が一つ(島後?、とうご)。隠岐の島がこのように長く横たわって見えるとは予想外だった。大きな島後が小さく見えるのは、島前より遠くにあるからだろう(島前53㌔、島後67㌔)。

美保神社鳥居スペーサー美保神社社殿美保神社社殿(天井)スペーサーしおかぜラインを戻り、美保漁港の近くにある美保神社へ。境内では小学生が写生をしている。かなりの人数、この近くに大きな小学校はなさそうだがと、ちょっと疑問だったが、(あとで)松江市から来た生徒と分かって納得。
美保神社の祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ、大国主命の子)大国主命の妃三穂津姫命(みほつひめのみこと)。創建の詳細は不明だが、『出雲風土記』にその名が記載されていることから、8世紀以前に遡ると考えられている  隋身門の注連縄は出雲大社並に立派なものだった。大きな拝殿(社殿)も重すぎず軽すぎず、ほどよいバランスの力強い外観で、天井のない屋内は柱や梁の木組みが美しかった。その拝殿では、何かの神事か、心地良い笛の音に合わせて巫女さんが舞っていた。私は“重文”を見るのも好きだが、天井の木組みと巫女さんの舞に見とれて、国指定重要文化財である本殿を見損なってしまった。 美保神社の本殿は「美保造り(比翼大社造り)」と呼ばれる、大社造の社を2棟横に並べた珍しい様式。左の社に事代主神を、右の社に三穂津姫命を祀る
境水道大橋2境水道大橋1スペーサー美保漁港~境水道大橋スペーサー美保神社を出、イカ焼きのおばさんの執拗な売り込みを振り切って境港方面に戻る。前を走るバスには、美保神社で写生をしていた小学生が乗っていた。バスと別れ、美保湾と中海をつなぐ境水道に架かる、長さ700㍍の境水道大橋を渡る。橋下に広がる瓦の波が美しかった。
大山遠望1大山遠望2大橋を渡れば鳥取県、弓ヶ浜沿いを南下する。もっとも、道路は海から離れているので浜は見えない。国道9号を横切り、大山道路(県道24号)へ。大山(だいせん)が近づく。山頂部の雲がすこしとれてきた。予報は曇りときどき晴れ。このぶんなら、明日、待望の大山登山ができそうだ。14時半、今日の宿「朝霧山荘」に到着、車をおいて、大山山麓の古刹-大山寺と大神山神社-の散策に出かけた。・・・つづく
修造成った本殿修造中の本殿3年前は60年ぶりの「平成の大遷宮」で、本殿の修造~おもに檜皮葺大屋根の葺き替え工事~の真っ最中だった出雲大社(いずもおおやしろ)に詣でた(20日)。本殿修造は今年5月完了したが、摂社・末社の改修は平成28年まで続けられる。
※遷宮とは御神体や御神座をほんらいあったところから移し、社殿を修造し、再び御神体にお還りいただくこと。「平成の大遷宮」では、平成20年4月に御祭神である大国主命が本殿から仮殿に移られ、今年5月10日に修造の終わった本殿にお戻りになられた。
一畑電鉄スペーサー今日は日曜日、大社周辺はいっそう混雑するだろう。電鉄出雲市前のホテル(ツインリーブスホテル出雲)に車をおいて、一畑電鉄で大社に向かう。 一畑電鉄、通称“バタデン”は、中井貴一主演の映画『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』に登場した電車である。
二の鳥居~三の鳥居二の鳥居スペーサー終点の出雲大社前で下車する。駅前は一の鳥居と二の鳥居の間の神門通り。通りは乗用車と観光バスで大渋滞、電車を利用して正解だった。木製の大鳥居(二の鳥居、勢溜(せいだまり)の鳥居)をくぐると、参道の右側にたくさん人が並んでいる。あとで分かったことだが、祓社(はらえのやしろ)があり、まずここで心身を清めてから大社にお参りするのが正しい参拝の仕方とか。そんなこととはつゆ知らず素通りする。ついでに、勢溜の鳥居とは、昔、そのまわりに芝居小屋などが建ち、非常に賑わっていて、人の勢いが溜まるところからその名が付いたのだそうだ。 四の鳥居三の鳥居スペーサー鉄製の三の鳥居を過ぎると、樹齢400年を越える松並木の参道。道は3つに分かれる。真ん中は松を保護するため通行禁止。おおかた、これから参拝する人は右を、参拝を終えた人は左を歩いている。手水舎で手と口を清め、四の鳥居(銅の鳥居)を通って出雲大社の境内に入る。

拝殿八足門本殿スペーサー境内はかなりの混雑。お守りやお祓いを求める人?で、拝殿や御守所の前には長い列ができている。まず、『出雲大社』の御朱印所を探す。御朱印所は御守所ではなく、拝殿横に設けられた仮設のテント場で、若い禰宜?二人が対応に追われていた。 八足門から本殿2八足門から本殿1スペーサー
次に、それほど待たずに八足門(やつあしもん)で、ニ拝四拍手一拝の出雲方式に則って御本殿に参拝。出雲大社は“縁結びの神様”だが、家内の安穏、とりわけ可愛い孫たちの健やかな成長を祈る。6歳、5歳、3歳、2歳、0歳の一男四女5人、彼らが成人した2,30年後、日本はどうなっているのだろう? 少なくとも“庶民”にとっては、いっそう住みづらい世の中になっているのは間違いない。先ごろ『借金大国にしたのは誰だ [大研究]日本の税金 失われた15年』(文藝春秋9月号)を読み、その憂いを強くした。
瑞垣から本殿3瑞垣から本殿2瑞垣から本殿1(アップ)スペーサー瑞垣から本殿1スペーサー参拝のあと、瑞垣に沿い反時計廻りに歩く。荘重な檜皮葺屋根の御本殿を見るのは二度目。初めて見たのは大学4年の春(前回の昭和28年の遷宮後 十余年のち)。早朝のこと、境内に人気はまばらであった。
現在の本殿(高さ24m)は延享元年(1744)に作られたが、かっては今よりはるかに高く、中古には48m、上古には96mあったと伝えられてきた。平成12年、八足門の前で古代の心御柱が発掘されたことにより、少なくとも“48m”の信憑性が高まっているのは周知のとおりである。心は古代のロマンと現世の反ロマンの間を行き来しながら、境内を出て神楽殿へ。ここでも御朱印(『神楽殿』の御朱印)を頂いたが、朱印・文言とも『出雲大社』と同じものだった(ちょっと失望)。

出雲阿国の墓スペーサー時計は午後1時をすこしまわる。御宮通りの「八雲そば」で腹ごしらえし、阿国通りを稲佐の浜へ。途中、出雲阿国の墓に行く。御存知、歌舞伎の始祖。出雲大社の鍛冶職中村三右衛門の娘で、出雲大社の巫女であったと伝えられる。天正の頃、出雲大社本殿の修復費勧進のため京都に上り、世にいう歌舞伎踊りを創始した。豊臣秀吉や徳川家康の前でも踊りを披露するほど名を上げ、世に「天下一阿国」として知られた。晩年は大社に帰り、尼となって智月と称し、連歌庵で連歌と読経三昧の静かな余生を過ごしたといわれる。お墓は平たい自然石で、なかなか“洒落て”いた。
弁天島稲佐の浜スペーサー稲佐の浜で、弁天島(島というより岩のよう)と日本海を見て、しばらく海岸に沿って南に歩き、すこし突飛な感じで建つ大燈籠(永徳寺坂下の大燈籠)から、神迎の道を市街に戻り、スズメウリ神迎え道永徳寺坂下の大燈籠スペーサー二の鳥居ぎわの「茶やおくに」で出雲ぜんざいを食べ、出雲大社参詣とその周辺ウォークを終わる。
神迎の道で、あめ玉みたいに実がぶら下がっている蔓を見る。あとで調べると、「スズメウリ」という植物だった。

出雲大社の全景(空から)スペーサー写真は、出雲大社の建物の配置がよく分かるので、出雲大社(いずもおおやしろ)から借用したものに文字入れした。
遷宮といえば、もう終わったのか、まだ続いているのか分からないが、伊勢神宮の弐年遷宮。500億強の巨費もさることながら、毎回、樹齢数百年の檜1万本以上を各地から調達するという。部材によっては樹齢500年以上 どうしてこんなに大量の原木が必要なのかと不思議だったが、建て替えは正宮のみならず、御垣内の建物すべてに及ぶのだそうだ。昨今は用材が枯渇して調達が困難となり、遅ればせながら伊勢の森に植林を始めたらしい。“弐年”遷宮の意義は定かではないらしく、①神道の精神として常に新たに清浄であること、②建築技術を継承するため(一人前になった大工としての寿命は20年?)、などが推測されている。出雲大社の遷宮は傷んだ屋根の修造であり、理由は明らか。
御装束神宝(神の衣服や正殿の装飾や器物等)も新調するのだとか。未曽有の東北大震災から2年、被災地では復興もままならない。今回は中止とか、規模を縮小するとか、別の選択肢もあったのではなかろうか。伊勢神宮には一度行ったことがある(十余年前)。左側がポッカリ空いた正宮は奇異だったし、風の神や水の神を祀るという社もとってつけたようで、感慨は浅かった。
久住登山の翌日(19日)、南麓の久住高原荘、国民宿舎だが国民宿舎というイメージは薄い、から534㌔を長駆して島根県の温泉津温泉へ(8:30-15:35)。
旅館吉田屋(内部)旅館吉田屋(外観)スペーサー宿は吉田屋。木造3階建てのこじんまりした旅館。建物は古いが経営者は新しい。8年前、先代から引き継いだという。先代との血縁はない。歴史ある温泉津温泉の未来(の一翼)を夢高き若者に託したというところだろう。 元湯温泉スペーサー
浴衣に着替えて、早速、共同浴場に行く。温泉津には共同浴場が2軒ある。「元湯泉薬湯」と「薬師湯」。個人感覚としては、現代的な薬師湯より元湯の方が好みに合っている。温泉津温泉は、1300年も前、一人の旅の僧が大きな古狸が池に浸かって傷を癒しているのを見て発見したのが始まりという。
中に入ると2畳ほどの浴槽が3つ。座り湯、温湯(ぬるゆ、座り湯とつながっている)、熱湯(あつゆ)。(今日の)熱湯は46℃。『入浴は2分以内』という注意書きがあるが、10秒と入っていられない。とくに脚部がジンジンと痛くなる。かけ湯を何度もするのが熱湯の入り方だという。座り湯と温湯は44℃、じゅうぶん熱い。熱湯は2度チャレンジした。

夕食前(19日)と朝食前(20日)、温泉津の街をショートウォークする。
スペーサー温泉津温泉街1スペーサー温泉津温泉街2スペーサー内藤家庄屋屋敷スペーサー龍御前神社スペーサー温泉津漁港スペーサー???
内藤家庄屋屋敷:内藤家は毛利水軍の御三家の一家で、初代内藤内蔵丞は毛利元就の命を受け、元亀元年(1570)、銀搬出の重要拠点である温泉津港口に鵜ノ丸城を築き、奉行に配された。関が原の役の後、毛利氏が石見から撤退すると、内藤家はこの地に土着し、廻船問屋や酒造業を手懸ける豪商として大きな影響力を保ち、代々年寄りや庄屋を務めた。現在の建物は延享四年(1747)の温泉津大火直後に再建された古建築で貴重なものとされる。
龍御前神社:創建は天文元年(1532)に勧請されたのが始まりと伝えらる。社殿背後の高台には「龍岩」と呼ばれる奇岩があり、龍岩の前に本殿が建立されていた(現在の建物は旧本殿)。祭神は、海神の娘で海の女神とされる豊玉姫命(とよたまひめのみこと)などを八神を祀っている。拝殿には船主や船頭により奉納された船絵馬が掲げられ、境内の石燈籠には寄進者として多くの北前船船頭の名前が刻まれている。
温泉津漁港:“津”とは港のこと。温泉津は温泉郷を背景として成立った津(港)である。
漁港にはネコが多い。散歩の途中、数匹のネコに遭遇した。
ネコ1ネコ2スペーサーネコ3ネコ4ネコ5スペーサー都会のネコと違って警戒心が少ない。とりわけ、ボスと思われるシロネコがそのいかつい顔に似合わず、甘えん坊だった。

陶器店スペーサー温泉津は、津和野とともに映画『男はつらいよ、寅次郎恋やつれ』(第13作)のロケ地となった。マドンナは吉永小百合。高田敏江が陶工の妻役で出演している。温泉津は焼き物の里でもある。
温泉津についての詳しい資料として、藤原雄高『温泉津港のみなと文化』がある。

瓦の波スペーサー20日、出雲市への道すがら、琴ヶ浜に立ち寄る。琴ヶ浜は「鳴り砂」として知られている。‎歩くとキュッキュッと琴の音のように鳴るという。折から、浜辺を清掃中だった地元の方が、イ.鳴り砂の“音源”は石英、ロ.波打ちぎわ綺麗なところを(靴を)蹴りこむように歩くと聞こえる(かもしれない)、と教えてくれたが聞こえず。 琴ヶ浜千鳥代わりに、美しい海岸の風景と可愛い千鳥の群れの動きを楽しんだ。千鳥は、私が近づくたびに一斉に砂浜を行ったり来たり。ネコには好かれたが、千鳥には嫌われた。
優雅な地名は、壇ノ浦の源平の戦に敗れてこの地に流れ着き、村人に助けられたお礼に、毎日琴を奏でていた平家の姫が亡くなって以来、砂の浜が琴の音のように鳴くようになり、姫を琴姫、浜を琴ヶ浜と呼ぶようになったという琴姫伝説に由来する。また、昔、栃若全盛時代に内掛け一本で大関を張った同名の力士がいたが、ここの出身ではないらしい。
熊本帰省の帰路、久住山に登り(18日)、温泉津(ゆのつ)で“熱湯”に入り(19日)、修復成ったばかりの出雲大社に参拝し(20日)、美保関から隠岐の島を遠望し(21日)、大山山麓の古刹を訪ねた(21日)。最も楽しみにしていた大山登山は、朝から無情の雨で、またの機会までお預け(22日)。

地形図スペーサー久住は、つい3カ月前、雨で登頂を断念したばかりで、そのリベンジでもある(ブログ)。法華院温泉山荘に1泊し久住と大船(だいせん)に登るのがベストだが、山荘が混んでいそうだったことと熊本での用事が1日延び、今回も牧ノ戸登山口からのピストンとなった。 阿蘇(根子岳と高岳)、城山展望台九重連山(城山展望台)
大津町のホテル(ホテルビスタ)、ここの朝食がなかなか良い、を出て、阿蘇外輪山城山展望所から阿蘇五岳を眺望し(鋭い峰々が雲間に見える根子岳が印象的だった)、九重連山を見ながらやまなみハイウェイを快走し、牧ノ戸峠駐車場に到着。
牧ノ戸コースは九重連山の主峰久住山(標高1786.5m)に登るのに最も平易なコース。高度差は460m、歩行距離は3.8㌔で、急登は始めの沓掛山の登り~コンクリートで固めた遊歩道で歩きづらい~と、終わりの久住分れから山頂への登り~ガレ場でこれも歩きづらい~だけ。行程の半分以上は緩やかなアップ&ダウンのハイキング気分で歩ける道である。
※九重連山の最高峰は九州本土の最高峰でもある中岳で標高1791m、九州最高峰は屋久島の宮之浦岳で標高1936m。近畿以西最高峰は四国の石鎚山(1982m)。

登山(9:20-12:05)
牧ノ戸登山口スペーサー出発920。風邪が抜けきらない体にコンクリの急坂が応える。100mほど上がって展望台(第一展望台)。ススキが朝陽に輝き、大半深い緑の中に赤や黄が山(沓掛山)の斜面を彩る。振り返れば、眼下に小さく牧ノ戸峠駐車場、奥に両裾を左右に伸ばした秀麗な山は涌蓋山。白く立ち昇るのは筋湯温泉の湯煙だろうか? 沓掛山北面の紅葉牧ノ戸駐車場牧ノ戸登山口~沓掛山スペーサー舗装された急坂をさらに50mほど上がると小広場(第二展望台)。ここから山道、ハシゴや鎖場もある沓掛山を越える。久住山は九州一、二の人気の山。時は紅葉の季節。登山者は多く、ハシゴや鎖場では“渋滞”が起きていた。

沓掛山~星生山分岐(西千里浜)沓掛山~星生山分岐沓掛山(標高1503m)を過ぎると、前回は濃いガスに隠れていた、三俣、星生、扇ヶ鼻などの九重連山の雄大な景観が広がった。台地状の尾根上の道を、山腹の紅葉と路傍のリンドウに目をやりながら進む(撮影は帰路!!星生山分岐~久住分れ(星生崎)スペーサー沓掛山の下りから緩やかな上りに転じ、扇ヶ鼻の分岐から再び下ると、西千里ヶ浜と呼ばれる広々とした草原。ガスに巻かれたとき道をはずさないように、登山道には“中央分離帯”のようにケルンが積まれている。星生山分岐を通過し(10:52)、久住山を正面に見ながら、星生崎の岩稜と肥前ヶ城の丘陵の間を行く。
久住山星生山分岐~久住分れ(久住分れ)巨人なら一跨ぎの星生崎(の先端の)岩場を越える。久住山が目の前に聳える。ここから望む久住山はピラミダルで迫力がある。加えて、南壁を這うようにガスが昇りアルプス的様相だ。 久住山頂スペーサー
久住分れ下の広場で小休止し(11:25-11:30)、久住山頂を目指す。久住分れの標高は1640mだから約150mの登り、道はガレ場で歩きづらい。砂礫に足をとられ、幾度か足をとめながらも、125、ほぼ半世紀ぶりの久住山頂に登頂した。

久住山頂(12:05-12:35)
④阿蘇高岳スペーサー③中岳・三俣山②三俣山①久住分れ・星生山スペーサー①久住分れと避難小屋、星生山・星生崎。噴気は硫黄山 ②三俣山と硫黄山、北千里ヶ浜 ③三俣山、天狗ヶ城と中岳(九州本土最高峰)。中岳の奥は平治岳(左)と北大船(右、大船山はそのもっと右) ④阿蘇高岳遠望、祖母傾山群は雲の中だった

下山(12:35-15:00)
④星生山分岐~沓掛山(扇ヶ鼻分岐) ③星生山分岐~沓掛山スペーサー②久住分れスペーサー①中岳分岐スペーサー①中岳分岐、久住山~久住分れの中間点 ②久住登山ルートの交差点久住分れ。右に北千里ヶ浜へ下れば、イ.諏蛾守越を経て長者原、ロ.法華院温泉を経て坊ガツル・大船山 ③星生山分岐~扇ヶ鼻分岐の四駆なら走れそうな登山道 ④扇ヶ鼻分岐、扇ヶ鼻を越えれば赤川登山口に下りる

紅葉とリンドウ
星生山南面の紅葉星生山南面の紅葉(アップ)スペーサー登山路の紅葉(星生山分岐~沓掛山)スペーサー登山路に咲くリンドウ1登山路に咲くリンドウ2スペーサー紅葉が見られたのはおもに星生山の山腹、リンドウが咲いていたのは沓掛山~扇ヶ鼻の登山道

由布岳、阿蘇五岳そして雲仙普賢岳
①展望台から由布岳②登山路(扇ヶ鼻分岐~沓掛山)から阿蘇五岳遠望③a登山路(扇ヶ鼻分岐~沓掛山)から雲仙普賢岳遠望③b展望台から雲仙普賢岳遠望スペーサー①第一展望台まで下りてくると、北東の方向に同じ大きさの三角形が二つ並んだ山が見える。あの山は? 居合わせたご夫婦二人連れ(北九州の方)に尋ねると由布岳という答え。そういえば由布岳は双耳峰だった。それにしてもみごとな双耳峰である ②阿蘇五岳はなかなかその全容を見ることができなかったが、雲が下がって・・・。扇ヶ鼻~沓掛山の登山道で ③久住山頂からも阿蘇のずっと右に独立峰のごとく見えていて気になっていた山。これもご夫婦から雲仙(普賢岳)でしょうと教えてもらった。扇ヶ鼻~沓掛山の登山道と第一展望台から
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。