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3月の『ちょい旅』は西伊豆・松崎。松崎は独身の頃、会社のクラブの夏合宿を行った風光明媚なところだが、その時は宿と海を往復するだけで、見どころいっぱいの情緒豊かな『文化“町”』であることを、今回の旅で知った。結婚後、一度、松崎町を通ったことがある。海水浴場のど真ん中にデーンと白亜の大ホテルが建って眉をひそめたが、そのホテル(プリンスホテル)は開業当初から赤字経営だったそうで、現在は伊東園に経営が移っている。西武といえば、鰺ヶ沢プリンスも売却(モンベルへ?)、その経営不振の理由に地元自治体の集客努力不足をあげていたと記憶している。西武のリゾート開発(スキー&ゴルフ)で、岩木山麓の自然はすっかり破壊されてしまったらしい。泊まったことがある屈斜路プリンスと田沢湖プリンスはどうなっているんだろう。ついでに調べてみた。屈斜路は継続、田沢湖は売却だった。
私たち(7日)は公共の宿『伊豆まつざき荘』。やはり海岸に建っているが、旧プリンスよりは控えめ、海水浴場をすこしはずれたところにある。部屋・温泉・食事(とくに朝食のバイキング)・値段、どれもよかった。

伊豆の長八美術館3伊豆の長八美術館2伊豆の長八美術館1スペーサ、タテ伊豆の長八美術館… 高村光雲の話『伊豆の長八は江戸の左官として前後に比類のない名人であった。浅草の展覧会で長八の魚づくしの図の衝立の出品があったことを覚えている。ことに図取りといい、鏝先の働きなどは巧みなもので、私はここでいかにも長八が名人であることを知った』
入江長八は天祐または乾道と号し、文化十二年(1815)伊豆国松崎村明地に生まれた。貧しい農家の長男だった。生来の手先の器用さに将来は腕をもって身をたてようと志し、12歳のとき同村の左官棟梁関仁助のもとに弟子入りし、19歳のとき江戸へ出て絵を狩野派の喜多武清に学んだ。26歳のとき日本橋茅場町の不動堂再建にあたり、長八は表口御拝柱の左右の柱に一対の龍を描き上げて一躍名人として名声を博した。長八の漆喰鏝絵は西洋のフレスコに勝るとも劣らない壁画技術として、芸術界でも高く評価されている。
美術館は1984年の開設。展示は『富岳』など50点(撮影禁止)、どれもみごとだが、建築界の芥川賞といわれる「吉田五十八賞」受賞の対象となった入れ物がまた素晴らしい(石山修武氏の設計)。現代的なデザインに古来の漆喰・なまこ壁がよく調和している。
漆喰鏝絵芸術といえば、上関(山口)の四階楼の豪快なそれを思い出す(⇒ブログ)。それに福島の事故で鳴りをひそめていた原発建設はどうなっているだろう。安倍天下、原発推進派が勢いを得ているに違いない。

岩科学校2岩科学校1スペーサ、タテ 岩科学校国指定重要文化財)…長八美術館から山側に1.5㌔ほど入ったところにある日本で3番目に古い小学校。明治13年の建築とか。ちなみに、一番古いのは「睦沢学校」(甲府、明治8年)、次が「開智学校」(松本、明治9年)。長八美術館、商家の中瀬邸とセットで見学料700円。漆喰となまこ壁の外壁、優美に曲線のバルコニー(バルコニーの外には出られなかった)。明治初め、ここはまだ小さな農漁村だっただろう、そんなところに早々と立派な小学校を建ったのも驚きだが、もっと驚きは工事費 2630円のうち、4余りが寄付金、その内1強の290円が村民の寄付金であったということ。明治の1円は現在の2万円に相当するそうで、その額はおよそ600万円ということになる。
岩科学校・展示2岩科学校・展示1岩科学校5岩科学校4岩科学校3岩科学校・教室岩科学校・校長室
中に入る。校長室や授業の様子が再現されている。中には赤ん坊をオンブした生徒も。明治時代の一村、そういうこともあっただろう。教材や近くの平野山から出土した縄文式土器などの展示、中でも目を惹くのは入江長八や高弟佐藤甚作の作品である。2階西の間(客室)欄間の『千羽鶴』、2階天井のランプ掛けと鳳凰、玄関の扁額『岩科学校』の上の龍(扁額は時の太政大臣三条実美の書)。その玄関を中心にシンメトリーな造り、1階は大きく張り出している。左部の前に植えられたマツがみごと。村役場だったという売店(喫茶コーナーあり)で一休憩。
岩科学校・西の間1「千羽鶴」岩科学校・西の間2「千羽鶴」岩科学校・玄関天井岩科学校6岩科学校・売店&喫茶
雨も降り続いていることだし、『ちょい旅』の目的は“温泉”にもある。早々に宿に入った。大浴場(温泉)は最上階6階、展望バツグン、サンセットに当たればサイコーだったが・・・

弁天島遊歩道5弁天島遊歩道4弁天島遊歩道3弁天島遊歩道2弁天島遊歩道1(伊豆まつざき荘と松崎伊東園ホテルスペーサ、タテ弁天島…昔は島だったが、今は陸続き。宿のすぐ近くにあり、街見物の前に一周200㍍という遊歩道を歩く。変化に富んだおもしろい散歩だった。

中瀬邸3中瀬邸2中瀬邸1スペーサ、タテ明治商家中瀬邸」…明治20年 呉服商家として建てられ、数代で財を築いた。昭和63年、(財)松崎町振興公社が買い取った。母屋から続く土蔵、離れとをつなぐ渡り廊下の船
中瀬邸・舟底天井2中瀬邸・舟底天井1中瀬邸・土蔵2中瀬邸・土蔵1スペーサ、タテ底天井、調度品やコレクションなど必見。
中瀬邸・展示3中瀬邸・展示2中瀬邸・展示1スペーサ、タテ
伊那下神社3伊那下神社2伊那下神社1スペーサ、タテ伊那下神社…『八方睨みの龍』(天井絵)など入江長八の名作がある長八記念館(浄感寺)、だがセット料金に含まれず500円@人でパス。斜す向かいの伊那下神社に行く。一風変わった手水鉢で“汚れ手”を清め参拝する。樹齢千年というイチョウ(親子イチョウ)に感服。さして遠くないところに伊那“上”神社もある。
近藤平三郎生家スペーサ、タテ近藤平三郎生家など…松崎町観光協会の隣りに近藤平三郎という人の生家があった。説明によれば、氏は(1877-1963)日本薬学界の最高権威。薬種商の長男として生まれ、東京帝国大学薬学科を卒業、ドイツ留学後同大学薬学主任教授となり、アルカロイドの研究に大きな足蹟を残した。昭和12年日本薬学会会頭、28年日本学士院会員となり、33年文化勲章を受章した。そういう土壌なのか、松崎は優れた人材を輩出してきたものだ。
ときわ大橋スペーサ、タテときわ大橋は松崎のシンボル、なまこ壁で欄干を装飾した長さ30㍍ほどの橋。那賀川にかかる。付近は中瀬邸や伊豆文邸、なまこ壁通りなど、みどころいっぱい。 伊豆文邸スペーサ、タテなまこ壁通り2なまこ壁通り1スペーサ、タテなまこ壁通りは“通り”というより路地、片側は荒地だが風情がある。伊豆文邸は明治43年の建築、呉服商の家だった。無料休憩所になっている。

石部の棚田(レンゲ)2石部の棚田(レンゲ)1石部の棚田2石部の棚田1スペーサ、タテ石部の棚田など…松崎から南、雲見へ向かう途中、棚田に寄る。海岸から2㌔ほど狭い道を登ったところ。田植えや稲刈りの時期はさぞ美しかろう。 展望(駐車場)1展望(駐車場)2スペーサ、タテ松崎と石部の間に展望の良い駐車場があり、広々とした海(駿河湾)とかすかに富士を見る。大気が澄んでいれば、ナント南アルプス北岳が見えるらしい!! 道沿いに何か点々と立っている。彫像だった。彫刻ラインというらしい。気にとめると事故につながりかねない。棚田では珍しくレンゲの花を見た。

雲見神社2雲見神社1スペーサ、タテ雲見浅間神社…雲見海岸の“駐車場”というか“スロープ”に車をおいて雲見浅間神社へ。神社は海辺りに聳える烏帽子山(標高162m)の山の上にある。2月に発症した変形膝関節炎の再発を怖れながら、石段330段を急登し拝殿、そこ
烏帽子山頂展望所1烏帽子山頂展望所2烏帽子山頂展望所3スペーサ、タテから同じくらい高の急坂を登って本殿。本殿のすぐ上が山頂展望所。山頂展望所からは素晴らしく、まさに絶景ポイントだったが、富士山はまったく見えず。
うなぎ処「京丸」2うなぎ処「京丸」1スペーサ、タテ松崎に戻り、コンビニで小腹を抑え、豪勢に沼津『京丸』のうな重でフィナーレ。ちょい旅にしては、遅い帰宅となった。

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松崎のブログをまとめている間に、あの忌まわしい『311』がきた。地震・津波は“天災”で ある意味 しかたがないが、原発事故は“人災”である。NHKはその数日前から特別番組を組み始めたが、民放は相変わらずタレント・俳優などがゾロゾロと出てくる“情報トーク”番組」ばかり。内容は他愛のないおしゃべりとおふざけ、わざとらしい笑い。おそらく台本なんかないのだろう。とくに地デジはひどい。NHKも ここ数年 タレント・俳優を重用するようになった。そして民放との“バランス上”高いギャラが払われる。源は受信料。彼らの説明が聞きやすく、内容も気が利いていればまあ我慢できるが、“自前の”アナウンサーのほうがよほど知的で、話し方の訓練もしているのでずっと聞きやすい。例外は『新日本風土記』/『もういちど、日本』の松たか子ぐらいだ。彼らにお高いギャラを払うくらいなら受信料を下げてほしい。もっとも民放のギャラも企業の広告料からで、それは商品・サービスの価格に含まれているから元は消費者の懐からである。 これまでNHKから民放に転職したアナウンサーは多い。とくに女子アナ。民放のほうがずっと高収入のことがその理由の一つだろうが、、その後みんなパッとしない。活躍できる番組が少ないのだろう。民放は、ドラマといえば安易な刑事もの、旅番組といえば宿での食事をこまごまと。以前、大山に登ったときの宿の人に聞いた話。NHKと民放がほぼ同時期に自然番組の収録に来たことがあるが、民放に雇われた一行はNHKよりずっと質素だったという。民放は収入の多くは番組の制作ではなく、自分たちの懐や給料や芸能人のギャラに入っているのだろう。
被災者の多く、とくに放射能汚染で避難を余儀なくされている人々の多くはもはや故郷に帰れる日は来るまい。何せ福島の事故レベルはチェルノブリやスリーマイル島を超える史上最悪なのだから。避難解除された地域も除染作業で削り取られた土が大量に野積みされたまま。袋が破れたり傷ついたりして いつなんどき 放射線が洩れ出すか分からない。そうでもなくとも放射線はすこしづつ洩れているではなかろうか。役所もなし、学校もなし、店もなし。避難解除すれば、国や東電は保証金や賠償金を支払わずに済む。原発では汚染水タンクが増え続けている。早晩、敷地外にタンクを作るか、処理済みと称して海に流し始めるのだろう。使用済み燃料の取り出しもままならない。無事故で役目を終えた原発の廃炉すら、巨額の費用と長い年月、困難な技術が必要。圧力容器を突き抜け格納容器の底に溜っているとみられる燃料デブリの取出しは不可能なのではあるまいか? 圧力容器内に留まり、量もぐっと少ないスリーマイル島(1979.3)でも燃料デブリの取出しに11年かかった。チェルノブイリ(1986.4)は原発そのものを石棺で覆ってしまった。その石棺は外からの風雨と内からの放射線で朽ち、今度はその石棺ごと覆うシェルターを建設中である。それでも放射線を“隔離”することはできない。半径30㌔以内は立入り禁止である。
間で総額26円といわれる復興税も福島事故の後始末に相当の額が投入されているに違いない。早々と決まった値上げ分もかなり充当されているだろう。加害者の元幹部は大枚の退職金を得て悠々自適の余生を約束され、故郷を追われた被害者は苦渋の老後を強いられる、日本という国のナント理不尽なことか 地震・津波と違って、家屋や田畑は無害で残っている。但し、5経った今、田畑は荒地と化し、家屋はイノシシやタヌキいの棲家になった。皮肉なことに彼らが身をもって放射線の影響を教えてくれるだろう。首都圏から200㌔あまりのところの建屋壁1枚の中は致死量の放射線が充満している。なんらかの事由で、これが漏れ出さないという保障は全くない。燃料デブリが再臨界を起こすあるいは起こしている可能性もあるという。
福島はもう安全、福島のような事故は2度と起きない、厳しい安全基準“書”を作ったので起きるはずがないらしい、政財界は原発再開に舵を切っている。僻地の発電所からの送電はコストがかかる。原発は(使用済み燃料の処分及び最終保管費用、廃炉費用も含めて)コストが安い上に安全というならば、地方ではなく東京・大阪・名古屋などの大都市近郊に作ったほうがよい。(安全なら不要のはずだが)交付金や協力金なども不要となり、地方の道路整備や公共施設の費用まで電力料金の一部として払わされることがなく、世界一高いといわれる(日本の)電力料金も安くなるだろう。
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