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大山山麓の古刹(大山寺と大神山神社)を巡るのは二度目。前回は雪が残る2月だった。一つの山に神社と寺院が併存しているのは、その時のブログにも書いたが、明治維新政府による「神仏分離令(廃仏毀釈)」の産物である。
「神仏分離令」は天皇の神権的権威の確立のために神道を保護し、仏教を抑圧する宗教政策であり、神道の“国教化”推進である。しかし、その実態は“抑圧”という生易しいものではなく、夥しい数の寺院・仏像など貴重な文化財を容赦なく破却する仏教否定だった。バーミヤンの磨崖仏がイスラム原理主義者タリバンによって爆破されたとき日本人の誰もが抗議したが、日本でも同じこと、いやそれ以上のことが近世において行われたのである。 かろうじて破壊を免れたのが、例えば国宝羽黒山五重塔。これは維新政府のお目こぼしでなく、地元信奉者の熱き思いによる結果であった。
疑問の一つは、貴重な文化財が壊されていくさまを見、神職の指導者・権威者たちはどう行動したかということ。積極的に推進したのか、異を唱えたのか、あるいは静観していたのか。次に、廃仏毀釈は地方ほど厳しく行われ、法隆寺や延暦寺など中央の大寺院に及ばなかったかのは何故かということ。もっとも奈良興福寺は例外だったが。建長寺や円覚寺など鎌倉の寺院への影響についても知りたいところである。
神仏分離の結果、神社の社殿はその山の高所、眺めも良い一等地にあり、(破壊されなかった)寺院の伽藍は山麓、低い所に残されるか移されるかした。ここ大山(だいせん)の大神山神社と大山寺しかり丹沢大山(おおやま)の大山阿夫利神社と大山寺(おおやまでら)しかりである。羽黒山もその山頂に建つのは出羽神社三神合祭殿である。 また、もともと寺院の建物が神社の所有になったものも多い。例えば、壮大な権現造りの大神山神社奥宮(国の重要文化財)は元は大山寺の本殿だった。その意味では、仏教文化財(の一部)は残されたともといえる。


大神山神社の奥宮と神門は、以前は大山寺本堂と大山寺本坊西楽院の表門だった。大山寺はかって山中に多数の御堂と寺院を配し西日本に於ける天台宗の一大拠点であったが、神仏分離・廃仏毀釈により衰退・頽廃し、四堂、本堂(旧大日堂)・阿弥陀堂・観音堂・護摩堂を残すのみである。
写真1:本堂写真2:本堂と鐘楼写真3:観音堂と白狐写真4:大山寺紅葉スペーサー阿弥陀堂以外の3つの御堂は本堂境内にあり、阿弥陀堂はそこからかなり離れた大山夏道登山道の脇にポツンと建っている。
写真7:大山寺阿弥陀堂3写真6:大山寺阿弥陀堂2写真5:大山寺阿弥陀堂1スペーサー阿弥陀堂が(大山寺のものとして)“救われた”のは、その建物の造りが神社にはあまりにも似つかわしくなかったのか、あるいは文化財的価値から取り壊すのはもったいないと判断されたのか?
写真1:大山寺本堂、旧大日堂。開山は奈良時代養老年間(約1300年前)。御本尊は神としての大智明権現、仏としての地蔵菩薩。1100年ほど前、慈覚大師の教えにより修験道から天台宗に改宗。現在の本堂は昭和26年に再建されたもの。 写真2:本堂と鐘楼。 写真3:本堂舞台から観音堂と白狐。本堂は観音堂より一段高いところにあり、本堂の前に清水寺のように“舞台”がある。御本尊は十一面観世音菩薩。御堂の前に座っている一対の白狐は観音様のお使いとか。寺と狐、珍しい取り合わせだが、これは神仏習合の名残り。この観音堂は正確には下山観音堂という。大神山奥宮の横にある神社も下山という名前だが・・・ 写真4:大山寺の紅葉。屋根は護摩堂。 写真5~7:大山寺阿弥陀堂。杉木立の中に静かに佇む阿弥陀堂は実に趣きのある建物で、見る者を侘び・寂びの世界に引き入れる。初めて見た3年前、阿弥陀堂は薄い霧に包まれていて、いっそうその印象を強くした。
阿弥陀堂はもともと常行堂(じょうぎょうどう)として平安初期(藤原時代)に建立されたものといわれ、山津波で倒壊し、室町末期の天文21年(1552)、古材を利用してこの地に再建された。明治に行が行われなくなると、阿弥陀を祀るための堂(阿弥陀堂)と呼ばれるようになった。本尊は、天承元年(1131)、仏師良円により作られた木造阿弥陀如来座像(266㌢)で、その両脇には観音と勢至の両菩薩が安置されている。建物、仏像とも国の重要文化財に指定されている。

大神山神社本社は米子市尾高というところにあり、同じ米子市でも奥宮とは相当離れている。直線距離でも10㌔以上、こんなに本社(本堂)と奥宮(奥の院)が離れている寺社は全国でも珍しいであろう。また、本社(本堂)は奥宮がある山の麓にあるのがふつうだが、大神山神社は市街地にある。これは神仏分離が生んだ地理的不自然さであろう。
写真8:石畳の参道スペーサー大山寺本堂から山門には戻らず、脇道から石畳の参道に出、大神山神社奥宮へと歩く。 写真9:大神山神社神門1写真10:大神山神社神門2写真11:大神山神社神門3スペーサー
写真8:自然石を敷きつめた参道。木立の中を700㍍つづく。たいへん気持ち良い道。 写真9~11:神門。石段が絶妙にカーブしており、門が徐々に姿を現すところがよい。この門は逆さ門とか後向き門とも呼ばれている。大山寺本坊西楽院の表門ここに移築したとき前後・表裏が逆になった。故意か、ミスか。何故そんなことになったのだろう。
写真12:大神山神社奥宮1写真13:大神山神社奥宮2スペーサー写真14:大神山神社奥宮3写真15:大神山神社奥宮4スペーサー写真16:大神山神社奥宮5スペーサー写真17:大神山神社奥宮6
写真18:大神山神社御神体(大山)スペーサー写真19:下山神社1写真20:下山神社2スペーサー写真12~17:大神山神社奥宮。左右に長い翼廊をもつ権現造りの建築。文化二年(1805)の建立と云われる。現在の御祭神は大己貴神(おおなむちのかみ、大国主神のこと)だそうだが、そうなると、大日堂に移祀された御本尊の“神の部分(大智明権現)”はどこにおられるのだろう? 政争には巻き込まれたが、建物自体の壮大健美は今も(昔も)変わらない。国の重要文化財。 写真18:大神山神社奥宮はもとは大山寺本堂、もともとは僧が修験のために大山に登り、その道場としての遥拝所だった。 写真19~20:下山神社備中郡司渡邊照政公は、元徳二年(1330)、大神山神社参拝の帰路、奇遇に遭い不慮の最期を遂げた。人々がこれを憐れんで大山下山の地に建てた「下山善神」が起源。以後数々の霊験があり多くの武将が信仰した。現在の社殿は代々の信仰が厚かった石州津和野の領主亀井隠岐守矩貴公が文化二年に再建したもの。複雑な屋根構造は八棟権現造りという。祭神は渡邊照政命。国の重要文化財。
蒜山SAスペーサー石畳の参道を旅館・商店街に戻る。大山橋を渡って(橋の袂にモンベル大山店がある)阿弥陀堂へ。阿弥陀堂から「朝霧山荘」に帰る途中、雨が降り出す。一時あがったが、翌日は未明からかなり強い雨。止みそうになく、大山登山は諦める。雨は山陰側だけで、米子道蒜山SAは曇り、山陽側(中国道)は陽射しが出ていた。
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