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2013.11.28 平泉・中尊寺
旅行会社のパックを利用して平泉中尊寺に行った。230,600のパックに含まれるものは東京⇔仙台の新幹線往復(座席指定)とホテル1泊(モンテエルマーナ仙台)。仙台着271645、仙台発281945で、その間の行動は自由である。
御朱印帳2御朱印帳1スペーサー『何故、中尊寺?』・・・妻は 昨年 瑠璃光寺を訪れたときから“御朱印”を始めているが、華鬘(花輪)をあしらった中尊寺金色堂の御朱印帳(カバー付き、カバーには金色堂の外観があしらわれている)がたいへん気に入ったこと。御朱印も見開き2頁に亘り珍しい。
長距離列車は昨年の常念岳登山以来(八王子~松本/豊科)、新幹線に乗ったのはいつだったか?覚えていない。少なくとも今世紀ではない。東北新幹線ホームに上がると、長い“鼻”を突き合わせた最新鋭車両が停まっている。「はやて」と「こまち」?、秋田新幹線や山形新幹線は東北新幹線の間は連結して走るらしい。童心にかえってシャッターを切りまくる。じき、私たちが乗る「やまびこ211号」が入線してきた。やはりカッコいい新鋭車両、E2系?だった。
新幹線から吾妻連峰新幹線から安達太良山新幹線から高原山と那須連峰新幹線から日光連山スペーサー指定席車両はガラガラ。日光連山、那須連峰、安達太良山、吾妻連峰と車窓に次から次へと展開する山なみに、退屈する間もなく列車は仙台駅に到着した。

東北道車窓2スペーサー東北道車窓1、虹東日本急行バス仙台駅前バス停28、仙台駅前9発東日本急行バスで中尊寺へ。すぐ東北道に入る(仙台宮城インター)。マイカーでは幾度となく走った東北道だが、目線が高いハイデッカー車から見る風景は新鮮。広い空は清々しく、刈取られたあとの田んぼも美しい。雨が降ったのだろうか?長者原サービスエリア付近では虹を見た。
中尊寺境内図一関インターから30ほど、1040、中尊寺に到着。帰りは1510発、毛越寺もまわれないことはないが、まずはゆっくりのんびり、中尊寺を鑑賞することとする。 中尊寺入口スペーサー月見坂1月見坂2、総門跡スペーサー東物見スペーサー
月見坂(表参道)を上がる。道の両側に中小の御堂(子院)が並ぶ。八幡堂、弁慶堂、地蔵堂、薬師堂・・・。弁慶堂のあと、東物見(台)から『夏草や 兵どもが 夢の跡』(衣川)を見下ろす。
弁慶堂1弁慶堂2スペーサー弁慶堂(愛宕堂):本尊は愛宕地蔵尊(勝軍地蔵)。文政九年(1826)の再建。御本尊の傍らに義経と弁慶の木像が安置されているが、弁慶像は、文治五年(1189)四月、高館落城とともに主君のため最期まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿である。・・・由来から
屋根下の(梁や蟇股の)彫りがなかなか見応えがあった。
薬師堂スペーサー薬師堂:縁起抜粋…薬師堂は藤原清衡が中尊寺境内に堂塔40余字建立の一字。旧跡は他の所にあったが、明暦三年(1657)に現在地に建立された。堂内には慈覚大師作と伝えられる薬師如来と、脇仏として日光菩薩、月光菩薩が安置されている。また薬師如来の分身または化身とも言われる十二神将が併置されている。薬師信仰は東北地方に平安の昔から中尊寺を中心に盛んに行われた。とくに眼病の人々には盲僧信仰として広く信仰されたのがこの薬師如来であり、この御堂であった。

中尊寺本堂スペーサー山門をくぐって本堂にお参りし、瑠璃光寺で求めた御朱印帳に御朱印を頂く。
説明板より…名前のとおり中尊寺の山内十七ヶ院を包括する中心道場。建武四年(1337)の火災により本堂ほか多くの堂宇が焼失したが、伊達藩の庇護によって多くが再建された。現在の本堂は明治42年の再建。「中尊寺建立供養奉願文」に記され、歴史の中(廃仏毀釈のこと?)で失われた丈六(485㌢)の釈迦如来を、平成25年、再び本尊として造顕した。壇の両脇には、総本山比叡山延暦寺より分灯された「不滅の法灯」が護持されている。

再び子院めぐり。観音堂、峯薬師堂、不動堂、鐘楼、大日堂、阿弥陀堂、・・・弁財天堂、釈迦堂、西谷坊(神楽殿)を経て境内最奥の白山神社(能楽殿)へ。阿弥陀堂と弁財天堂の間は、拝観料が必要な金色堂・経蔵・旧覆堂・讃衡蔵と、食事&休憩のかんざん亭である。
峯薬師堂1スペーサー峯薬師堂:説明板より…もと経塚山(金色堂の南方)の下にあったが、天正年間(1573-1591)に荒廃、のち元禄二年(1689)現在の地に再建。 峯薬師堂2スペーサー本尊は藤原末期の作。丈六(2.7㍍)の薬師如来坐像でカツラ材の寄木造り・漆塗りに金箔をおいたもの(重要文化財)。讃衡蔵に安置されている。現在の御堂は昭和57年の改築。本尊も薬師如来を中心とした日光菩薩、月光菩薩の三尊で、昭和63年、仏師松尾秀麻師の作。
上がり框に“眼のお守り”が置いてあった。また前の池にはモリアオガエルが生息するらしい。
中尊寺鐘楼スペーサー梵鐘は、説明板によると、康永二年(1343)に金色堂別当頼栄の発願により鋳造された盤渉調の梵鐘。撞座は長い歳月にわたる打鐘で窪み、現在この鐘が撞かれることはない。鐘身の銘文には建武四年(1337)山上に堂塔が火災により焼失したと記し、奥州藤原氏以後の歴史を伝える資料としても貴重である。径86㌢。岩手県指定文化財、とある。
スペーサー不動堂大日堂スペーサー中尊寺境内スペーサー阿弥陀堂弁財天堂
西谷坊スペーサー弁財天堂:茅葺の寄棟造りで、廻りを池で囲まれた小島の上に建っている。床を高くして湿気から護る造りが趣きのある外観にもなっている。説明板から…当堂は宝永二年伊達家寄進の堂宇にて弁財天十五童子像を安置。弁財天はインドの薩羅我底河より生じたる神にて水に縁深く池、河の辺に祀られる。
西谷坊には重要文化財の野外神楽殿があったが、大々的な修復中だった。

金色堂スペーサー讃衡蔵(宝物館)で、金色堂・経蔵・旧覆堂の共通拝観券を購入して、新覆堂(金色堂)へ。まず、旅の主な目的である御朱印帳を求め御朱印をいただく。中尊寺は二度目だが、かなり昔のことで、記憶にあるのは金色堂と旧覆堂ぐらい。人波に押されて立ち止まることもできず、須弥壇内部は人の頭でよく見学できなかった。今回は、世界遺産指定から2年が経ち、紅葉も終わった時期で、ゆっくりと心ゆくまで、その豪華絢爛たる美を堪能することができた。
国宝金色堂初代清衡によって、天治元年(1124)に建立された阿弥陀堂で、昭和37年、解体大修理が行われた。防災・防湿に万全を期した鉄筋コンクリート造りの新覆堂はこの時建設された。ということは、当初の目的は奥州藤原氏の“霊廟”として建てられたものではなかった? 中央に御本尊阿弥陀如来、前左右に勢至菩薩と観音菩薩、横に地蔵菩薩が三体づつ、それらの仏像たちを四天王の二人である持国天と増長天が守護するという独特の配置。須弥壇の中には初代清衡、二代基衡、三代秀衡の遺体、四代泰衡の首級が安置されている。
泰衡は頼朝に屈して秀衡の遺言を破り、義経・弁慶を討った人物。彼自身、家来河田次郎の裏切りで、奥州藤原氏はわずか四代で滅亡する(文治五年、1189)。泰衡は義経の首を差し出すことで平泉の平和と自身の助命を図ったが、頼朝は家人の義経を許可なく討伐したことを理由に泰衡追討に向かい、さらに泰衡の首を届けた河田次郎に対しては、「譜第の恩」を忘れた行為は八虐の罪に当たるとして斬罪する。頼朝、権謀術策に長けたなかなかの策略家である。泰衡の首は故実にならい、眉間に八寸の鉄釘を打ち付け柱に懸けられた。その後、泰衡の首は平泉に戻され黒漆塗りの首桶に入れられ、秀衡の眠る金色堂の金棺の傍らに納められた。
芭蕉句碑スペーサー金色堂を出ると、芭蕉の超有名な『五月雨の 降り残してや 光堂』の句碑があった。俳人長谷川櫂氏(NHK:100分de名著「おくのほそ道」)によれば、この句は『夏草や 兵どのが 夢の跡』と対句を成し、藤原氏の栄枯盛衰を通して人の営みの“確かさ”と“儚さ”を表しているのだそうだ。
※確かさ:「儚さ、はかなさ」の反義語のつもりで使っている。適切な用語が思いつかない

経蔵スペーサー重要文化財経蔵:いわゆる中尊寺経を納めていた御堂。創建時の再建されたものであり、堂内には平安時代の彩色模様が確認できる。国内最古の保安三年(1122)の棟札が伝えられる。本尊の騎師文殊菩薩と四脊属像(重文)、堂内具(国宝)、紺紙金字一切経(国宝)等の経典類は、現在、讃衡蔵に安置・収蔵されている。
金色堂旧覆堂1金色堂旧覆堂2、内部スペーサー重要文化財金色堂覆堂:古くは鞘堂と呼ばれた。正応元年(1288)の棟札より、鎌倉幕府によって金色堂の修復が行われ覆堂が建てられたと考えられてきた。近年の調査では、金色堂建立後50年ほどで簡素な覆屋根がかけられ、増改築を経て室町時代中期(16世紀)に現在の形になったとみなされる。昭和38年、新覆堂の建築に伴いこの場所に移された。
かんざん亭からスペーサーきらびやかな金色堂。その金色堂を500年の風雪から守ってきた旧覆堂をあとに讃衡蔵(さんこうぞう)へ。讃衡蔵とは「奥州藤原三代(清衡・基衡・秀衡の衡)の偉業を讃える宝蔵」という意味。仏像・仏具、経典・書画や副葬品など国宝・重文オンパレードの展示品の質と数には 心底 驚かされた。
毛越寺は一度は訪れたこともあり、またの機会ということにして、かんざん亭で、軽食と長い休憩を取る。
白山神社能舞台1白山神社能舞台2スペーサー白山神社重要文化財能舞台:小さな社と大きな能舞台の取合せが面白い。白山神社は嘉祥三年(850)中尊寺の開祖慈覚大師円仁が加賀白山をこの地に勧請し、自らは十一面観音を作って中尊寺の鎮守白山権現と号したのが始まりとされる。 白山神社と能舞台スペーサー
現在の能舞台は嘉永六年(1853)伊達藩主伊達慶邦朝臣から再建奉納されたもの。茅葺の寄棟屋根、欄干で囲まれた本舞台や鏡の間を繋ぐ橋掛、鏡板に描かれた「老松」など、たいへん印象深い建物だった。 ただ、参道脇に立つ異様にでかい[看板」、鳥居よりも高い!、には興趣をそがれた。

赤堂稲荷衣川と前九年後三年役碑中尊寺入口に戻る途中、本堂から北参道を下りて、衣川の土手へ。写真の石碑『前九年後三年役衣川古戦場跡』は東物見に立っていたもの。衣川から国道4号線を中尊寺に向かって歩いていると、赤い鳥居が目に入り(赤堂稲荷)、“時間潰しに”そこそこ高い石段を昇り降りする。 東日本急行バス中尊寺バス停スペーサー
中尊寺バス停に着いたが まだ 時間がある。今一度 月見坂を往復する。乗客は私たちをいれても3人。仙台~中尊寺・急行バスの運行は11月いっぱいまでである。
東北道車窓1東北道車窓3スペーサー夕暮れがせまる東北道、赤く染まったサンバイザーに何やら黒い小さい“影”が・・・ 塒を急ぐ?鳥の群れだった。ガンかカモか、いくつかの鳥の群れは“V字編隊”の形を変えながら、東から西の空へと去っていった。
スペーサー東北道車窓2、夕焼けと鳥の群れスペーサー鳥の編隊1鳥の編隊2鳥の編隊3
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