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3月の『ちょい旅』は西伊豆・松崎。松崎は独身の頃、会社のクラブの夏合宿を行った風光明媚なところだが、その時は宿と海を往復するだけで、見どころいっぱいの情緒豊かな『文化“町”』であることを、今回の旅で知った。結婚後、一度、松崎町を通ったことがある。海水浴場のど真ん中にデーンと白亜の大ホテルが建って眉をひそめたが、そのホテル(プリンスホテル)は開業当初から赤字経営だったそうで、現在は伊東園に経営が移っている。西武といえば、鰺ヶ沢プリンスも売却(モンベルへ?)、その経営不振の理由に地元自治体の集客努力不足をあげていたと記憶している。西武のリゾート開発(スキー&ゴルフ)で、岩木山麓の自然はすっかり破壊されてしまったらしい。泊まったことがある屈斜路プリンスと田沢湖プリンスはどうなっているんだろう。ついでに調べてみた。屈斜路は継続、田沢湖は売却だった。
私たち(7日)は公共の宿『伊豆まつざき荘』。やはり海岸に建っているが、旧プリンスよりは控えめ、海水浴場をすこしはずれたところにある。部屋・温泉・食事(とくに朝食のバイキング)・値段、どれもよかった。

伊豆の長八美術館3伊豆の長八美術館2伊豆の長八美術館1スペーサ、タテ伊豆の長八美術館… 高村光雲の話『伊豆の長八は江戸の左官として前後に比類のない名人であった。浅草の展覧会で長八の魚づくしの図の衝立の出品があったことを覚えている。ことに図取りといい、鏝先の働きなどは巧みなもので、私はここでいかにも長八が名人であることを知った』
入江長八は天祐または乾道と号し、文化十二年(1815)伊豆国松崎村明地に生まれた。貧しい農家の長男だった。生来の手先の器用さに将来は腕をもって身をたてようと志し、12歳のとき同村の左官棟梁関仁助のもとに弟子入りし、19歳のとき江戸へ出て絵を狩野派の喜多武清に学んだ。26歳のとき日本橋茅場町の不動堂再建にあたり、長八は表口御拝柱の左右の柱に一対の龍を描き上げて一躍名人として名声を博した。長八の漆喰鏝絵は西洋のフレスコに勝るとも劣らない壁画技術として、芸術界でも高く評価されている。
美術館は1984年の開設。展示は『富岳』など50点(撮影禁止)、どれもみごとだが、建築界の芥川賞といわれる「吉田五十八賞」受賞の対象となった入れ物がまた素晴らしい(石山修武氏の設計)。現代的なデザインに古来の漆喰・なまこ壁がよく調和している。
漆喰鏝絵芸術といえば、上関(山口)の四階楼の豪快なそれを思い出す(⇒ブログ)。それに福島の事故で鳴りをひそめていた原発建設はどうなっているだろう。安倍天下、原発推進派が勢いを得ているに違いない。

岩科学校2岩科学校1スペーサ、タテ 岩科学校国指定重要文化財)…長八美術館から山側に1.5㌔ほど入ったところにある日本で3番目に古い小学校。明治13年の建築とか。ちなみに、一番古いのは「睦沢学校」(甲府、明治8年)、次が「開智学校」(松本、明治9年)。長八美術館、商家の中瀬邸とセットで見学料700円。漆喰となまこ壁の外壁、優美に曲線のバルコニー(バルコニーの外には出られなかった)。明治初め、ここはまだ小さな農漁村だっただろう、そんなところに早々と立派な小学校を建ったのも驚きだが、もっと驚きは工事費 2630円のうち、4余りが寄付金、その内1強の290円が村民の寄付金であったということ。明治の1円は現在の2万円に相当するそうで、その額はおよそ600万円ということになる。
岩科学校・展示2岩科学校・展示1岩科学校5岩科学校4岩科学校3岩科学校・教室岩科学校・校長室
中に入る。校長室や授業の様子が再現されている。中には赤ん坊をオンブした生徒も。明治時代の一村、そういうこともあっただろう。教材や近くの平野山から出土した縄文式土器などの展示、中でも目を惹くのは入江長八や高弟佐藤甚作の作品である。2階西の間(客室)欄間の『千羽鶴』、2階天井のランプ掛けと鳳凰、玄関の扁額『岩科学校』の上の龍(扁額は時の太政大臣三条実美の書)。その玄関を中心にシンメトリーな造り、1階は大きく張り出している。左部の前に植えられたマツがみごと。村役場だったという売店(喫茶コーナーあり)で一休憩。
岩科学校・西の間1「千羽鶴」岩科学校・西の間2「千羽鶴」岩科学校・玄関天井岩科学校6岩科学校・売店&喫茶
雨も降り続いていることだし、『ちょい旅』の目的は“温泉”にもある。早々に宿に入った。大浴場(温泉)は最上階6階、展望バツグン、サンセットに当たればサイコーだったが・・・

弁天島遊歩道5弁天島遊歩道4弁天島遊歩道3弁天島遊歩道2弁天島遊歩道1(伊豆まつざき荘と松崎伊東園ホテルスペーサ、タテ弁天島…昔は島だったが、今は陸続き。宿のすぐ近くにあり、街見物の前に一周200㍍という遊歩道を歩く。変化に富んだおもしろい散歩だった。

中瀬邸3中瀬邸2中瀬邸1スペーサ、タテ明治商家中瀬邸」…明治20年 呉服商家として建てられ、数代で財を築いた。昭和63年、(財)松崎町振興公社が買い取った。母屋から続く土蔵、離れとをつなぐ渡り廊下の船
中瀬邸・舟底天井2中瀬邸・舟底天井1中瀬邸・土蔵2中瀬邸・土蔵1スペーサ、タテ底天井、調度品やコレクションなど必見。
中瀬邸・展示3中瀬邸・展示2中瀬邸・展示1スペーサ、タテ
伊那下神社3伊那下神社2伊那下神社1スペーサ、タテ伊那下神社…『八方睨みの龍』(天井絵)など入江長八の名作がある長八記念館(浄感寺)、だがセット料金に含まれず500円@人でパス。斜す向かいの伊那下神社に行く。一風変わった手水鉢で“汚れ手”を清め参拝する。樹齢千年というイチョウ(親子イチョウ)に感服。さして遠くないところに伊那“上”神社もある。
近藤平三郎生家スペーサ、タテ近藤平三郎生家など…松崎町観光協会の隣りに近藤平三郎という人の生家があった。説明によれば、氏は(1877-1963)日本薬学界の最高権威。薬種商の長男として生まれ、東京帝国大学薬学科を卒業、ドイツ留学後同大学薬学主任教授となり、アルカロイドの研究に大きな足蹟を残した。昭和12年日本薬学会会頭、28年日本学士院会員となり、33年文化勲章を受章した。そういう土壌なのか、松崎は優れた人材を輩出してきたものだ。
ときわ大橋スペーサ、タテときわ大橋は松崎のシンボル、なまこ壁で欄干を装飾した長さ30㍍ほどの橋。那賀川にかかる。付近は中瀬邸や伊豆文邸、なまこ壁通りなど、みどころいっぱい。 伊豆文邸スペーサ、タテなまこ壁通り2なまこ壁通り1スペーサ、タテなまこ壁通りは“通り”というより路地、片側は荒地だが風情がある。伊豆文邸は明治43年の建築、呉服商の家だった。無料休憩所になっている。

石部の棚田(レンゲ)2石部の棚田(レンゲ)1石部の棚田2石部の棚田1スペーサ、タテ石部の棚田など…松崎から南、雲見へ向かう途中、棚田に寄る。海岸から2㌔ほど狭い道を登ったところ。田植えや稲刈りの時期はさぞ美しかろう。 展望(駐車場)1展望(駐車場)2スペーサ、タテ松崎と石部の間に展望の良い駐車場があり、広々とした海(駿河湾)とかすかに富士を見る。大気が澄んでいれば、ナント南アルプス北岳が見えるらしい!! 道沿いに何か点々と立っている。彫像だった。彫刻ラインというらしい。気にとめると事故につながりかねない。棚田では珍しくレンゲの花を見た。

雲見神社2雲見神社1スペーサ、タテ雲見浅間神社…雲見海岸の“駐車場”というか“スロープ”に車をおいて雲見浅間神社へ。神社は海辺りに聳える烏帽子山(標高162m)の山の上にある。2月に発症した変形膝関節炎の再発を怖れながら、石段330段を急登し拝殿、そこ
烏帽子山頂展望所1烏帽子山頂展望所2烏帽子山頂展望所3スペーサ、タテから同じくらい高の急坂を登って本殿。本殿のすぐ上が山頂展望所。山頂展望所からは素晴らしく、まさに絶景ポイントだったが、富士山はまったく見えず。
うなぎ処「京丸」2うなぎ処「京丸」1スペーサ、タテ松崎に戻り、コンビニで小腹を抑え、豪勢に沼津『京丸』のうな重でフィナーレ。ちょい旅にしては、遅い帰宅となった。

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松崎のブログをまとめている間に、あの忌まわしい『311』がきた。地震・津波は“天災”で ある意味 しかたがないが、原発事故は“人災”である。NHKはその数日前から特別番組を組み始めたが、民放は相変わらずタレント・俳優などがゾロゾロと出てくる“情報トーク”番組」ばかり。内容は他愛のないおしゃべりとおふざけ、わざとらしい笑い。おそらく台本なんかないのだろう。とくに地デジはひどい。NHKも ここ数年 タレント・俳優を重用するようになった。そして民放との“バランス上”高いギャラが払われる。源は受信料。彼らの説明が聞きやすく、内容も気が利いていればまあ我慢できるが、“自前の”アナウンサーのほうがよほど知的で、話し方の訓練もしているのでずっと聞きやすい。例外は『新日本風土記』/『もういちど、日本』の松たか子ぐらいだ。彼らにお高いギャラを払うくらいなら受信料を下げてほしい。もっとも民放のギャラも企業の広告料からで、それは商品・サービスの価格に含まれているから元は消費者の懐からである。 これまでNHKから民放に転職したアナウンサーは多い。とくに女子アナ。民放のほうがずっと高収入のことがその理由の一つだろうが、、その後みんなパッとしない。活躍できる番組が少ないのだろう。民放は、ドラマといえば安易な刑事もの、旅番組といえば宿での食事をこまごまと。以前、大山に登ったときの宿の人に聞いた話。NHKと民放がほぼ同時期に自然番組の収録に来たことがあるが、民放に雇われた一行はNHKよりずっと質素だったという。民放は収入の多くは番組の制作ではなく、自分たちの懐や給料や芸能人のギャラに入っているのだろう。
被災者の多く、とくに放射能汚染で避難を余儀なくされている人々の多くはもはや故郷に帰れる日は来るまい。何せ福島の事故レベルはチェルノブリやスリーマイル島を超える史上最悪なのだから。避難解除された地域も除染作業で削り取られた土が大量に野積みされたまま。袋が破れたり傷ついたりして いつなんどき 放射線が洩れ出すか分からない。そうでもなくとも放射線はすこしづつ洩れているではなかろうか。役所もなし、学校もなし、店もなし。避難解除すれば、国や東電は保証金や賠償金を支払わずに済む。原発では汚染水タンクが増え続けている。早晩、敷地外にタンクを作るか、処理済みと称して海に流し始めるのだろう。使用済み燃料の取り出しもままならない。無事故で役目を終えた原発の廃炉すら、巨額の費用と長い年月、困難な技術が必要。圧力容器を突き抜け格納容器の底に溜っているとみられる燃料デブリの取出しは不可能なのではあるまいか? 圧力容器内に留まり、量もぐっと少ないスリーマイル島(1979.3)でも燃料デブリの取出しに11年かかった。チェルノブイリ(1986.4)は原発そのものを石棺で覆ってしまった。その石棺は外からの風雨と内からの放射線で朽ち、今度はその石棺ごと覆うシェルターを建設中である。それでも放射線を“隔離”することはできない。半径30㌔以内は立入り禁止である。
間で総額26円といわれる復興税も福島事故の後始末に相当の額が投入されているに違いない。早々と決まった値上げ分もかなり充当されているだろう。加害者の元幹部は大枚の退職金を得て悠々自適の余生を約束され、故郷を追われた被害者は苦渋の老後を強いられる、日本という国のナント理不尽なことか 地震・津波と違って、家屋や田畑は無害で残っている。但し、5経った今、田畑は荒地と化し、家屋はイノシシやタヌキいの棲家になった。皮肉なことに彼らが身をもって放射線の影響を教えてくれるだろう。首都圏から200㌔あまりのところの建屋壁1枚の中は致死量の放射線が充満している。なんらかの事由で、これが漏れ出さないという保障は全くない。燃料デブリが再臨界を起こすあるいは起こしている可能性もあるという。
福島はもう安全、福島のような事故は2度と起きない、厳しい安全基準“書”を作ったので起きるはずがないらしい、政財界は原発再開に舵を切っている。僻地の発電所からの送電はコストがかかる。原発は(使用済み燃料の処分及び最終保管費用、廃炉費用も含めて)コストが安い上に安全というならば、地方ではなく東京・大阪・名古屋などの大都市近郊に作ったほうがよい。(安全なら不要のはずだが)交付金や協力金なども不要となり、地方の道路整備や公共施設の費用まで電力料金の一部として払わされることがなく、世界一高いといわれる(日本の)電力料金も安くなるだろう。
2月の“ちょい旅”は房総半島。お目当ては、国の文化財になっている宿『大屋旅館』。房総半島のほぼ真ん中、太平洋寄りの大多喜町にある。
海ほたるの日の出1海ほたるの日の出2海ほたるの日の出3海ほたるの日の出4スペーサ、タテ朝早く家を出たおかげで、『海ほたる』から日の出(645~)を見ることができた。素晴らしく美しい。
飛行機(海ほたる)スペーサ、タテ早朝にもかかわらず、羽田にはひっきりなしに旅客機が着陸する。定かではないが、外国機も着陸するようだ。時おり、離陸する機もある。ほとんどの機は右へ大きく旋回し西へ向かう。まだ高度は低い。よく落ちないものだ。
久留里城天守閣久留里城天守閣から天守閣から天守台跡天守閣と天守台跡スペーサ、タテ木更津金田ICから久留里へ。久留里城は戦国時代の初期、里見義堯が築いた。今の天守閣は昭和54年“再建”の“模擬天守”。
上総掘り井戸掘り櫓(資料館)資料館から三の丸跡スペーサ、タテ天守閣に登る途中に資料館がある。車はここまで。駐車場の下に三の丸跡が広がるが、“跡”は何もない。資料館の外庭に井戸掘り櫓が再現されている。明治中頃、考案された「上総掘り」方式で、東南アジアやアフリカで今も使われているそうだ。
富津岬からパノラマスペーサ、タテ富津公園(富津岬)を往復する。突端(岬)は国道から4㌔ほども進んだところ。リネツ金沢からしばしば見る東京湾を対岸から見る。幸浦にあるテクノタワーが確認できた。
藤美スペーサ、タテ久留里に戻り、上総地域交流センター(駅の隣にある)の駐車場に車をおいて、そば処『藤美』へ。私はかき揚げ、連れは冷やしとろろ、久留里は“名水の里”、名水で打った蕎麦は絶品。 川名家?の名水高澤の名水藤原酒造店の名水駅前水くみ広場スペーサ、タテサクラエビたっぷりのかき揚げはほどよい衣の厚さ、トロロは口応えのある固さ。ここだけをターゲットにまた来てもよいくらいだ。食事の後は、駅前の「水くみ広場」を皮切りに“名水めぐり”。4つほど井戸を見て、「高澤の名水」を戴く。まろやかな超軟水だった。
久留里神社4久留里神社3久留里神社2久留里神社1スペーサ、タテ次は久留里神社。石段を登り、隋神門をくぐり本殿。思っていたより大きい神社だった。が、人気は全くなかった。創建は治安元年(1021)という。

久留里から大多喜へ(およそ20㌔)。大多喜は徳川四天王の一人、本多忠勝が築城した大多喜城の城下町。その面影を残す街並みが今も残っている。例えば、嘉永二年(1849)築の江戸後期の大商家「渡辺家住宅」(国指定重要文化財)。明治七年(1874)築の「豊之鶴酒造」(国登録有形文化財)。そして、「大屋旅館」(国登録有形文化財)。
スペーサ、タテ大屋旅館1大屋旅館2大屋旅館3大屋旅館4大屋旅館5スペーサ、タテ大屋旅館6大屋旅館7
大屋旅館8スペーサ、タテ 大屋旅館は江戸時代から続く旅館で、現在の建物は明治十八年(1885)頃に改装されたそうだ。大正から昭和にかけては、旅館業のほかに、米フォード車を使用した乗合自動車業も営んでいたという。
夷隅神社3夷隅神社2夷隅神社1スペーサ、タテ大屋旅館の横は夷隅神社。朝食前に散歩に行く。境内では五・十日、市が開かれる。今日はその10日、ちらほら店開きの用意が始まっていた。 大多喜小学校スペーサ、タテ
神社から大多喜小学校へ。8年前、初めて大多喜を訪れたとき(⇒ブログ)も驚かされたが、実に美しい建物の小学校だ。建物の後ろに見える大多喜城も素晴らしい。ズカズカと校庭に入っていくと、サッカー朝練前の男の子がイロイロと案内してくれた。
アクアブリッジスペーサ、タテ大多喜城も大多喜の街並みも観光済みということで、以前旨い魚料理を食べた記憶のある“保田”に行くことにする。ナビは鴨川経由。ならば行ったことのない鴨川シーワールドに寄ることにする。ところが、山間の県道はだんだん狭くなり走行するに難儀。旨い魚もイルカショーも諦め、北へUターン。南房総はシーサイドを走るべし。
海ほたるからパノラマ1スペーサ、タテ東京湾アクアライン『海ほたる』12~13。お昼を食べ(海鮮チャンポン)、周囲をパノラマ撮影。ランドマークタワー、横浜ベイブリッジ、鶴見つばさ橋が薄く見え、眼を凝らすと
海ほたるからパノラマ2海ほたるからパノラマ3スペーサ、タテその背後に真白き富士と丹沢の山並み。北へ。風の塔、羽田管制塔… スカイツリーは靄の中にボーッ。東京タワーは案内板がなければその位置が分からない。ディズニーランドは双眼鏡が必要。千葉から木更津にかけては工業地帯。川崎製鉄(JFE)、東電の(火力発電所の)煙突が並ぶ。原発事故以来、フル稼働だろう。南は東京湾が茫洋と広がり、房総・三浦の丘陵がスカイラインをつくっている。
山中城跡案内板スペーサ、タテ国指定史跡『山中城跡』は三島市街から国道1号線を箱根方面へ30ほどのところにある。小田原に本城をおいた北条氏(後北条氏)が、永禄年間(1560年代)、小田原防衛のために創築した“山城”。天正十七年(1589)、豊臣秀吉の小田原征伐に備え急ぎ西の丸などを増築したが、翌年三月、圧倒的多勢に無勢(7vs4)にわずか半日で落城したと伝えられている。
足柄SAから富士スペーサ、タテ石を使わない山城の最後の姿をとどめており、北条流の築城技術(障子掘など)をよく知ることができる遺構である。また富士山の絶好のビューポイントであり、それがこの旅の大いなる楽しみの一つだったが、あいにくの曇り空だった。
スペーサ、タテ西の丸スペーサ、タテ西の丸、見晴台から障子掘跡ジョウビタキスペーサ、タテ西の丸から北の丸・本丸へ
スペーサ、タテ北の丸エナガがいた木々北の丸と本丸をつなぐ木橋本丸天守櫓スペーサ、タテすりばち曲輪
山中城跡から愛鷹山スペーサ、タテ山中城跡を2時間ほど散策したあとのお昼は、この旅最大の楽しみ“鰻!!。店は人気No.1という桜家ではなく、沼津港に近い『京丸』。記憶をたどれば鰻はリタイア後“初めて”である。京丸から三嶋大社に向かう途中にあった『桜家』の前は順番を待つ客で溢れていた。

柿田川公園案内図スペーサ、タテ一人当たりにすれば 実質 生活保護費並みの私の年金では滅多に口にできない「うな重ランチ」のあと三嶋大社に向かった。が、三嶋大社前の市街地道路は駐車待ちの車が長蛇の列、この旅のもう一つの目的地、柿田川湧水に行く。
柿田川公園柿田川公園柿田川公園スペーサ、タテ柿田川湧水の源は富士山。40㌔北の富士に降った雨・雪が十数年といわれる歳月を経て湧きだしている。公園(柿田川公園)になっており、数箇所の湧出し口が見られる。その一つは製紙会社が使っていた井戸である。八ツ橋から第ニ展望台へと散策する。
クロセキレイ4クロセキレイ3クロセキレイ2クロセキレイ1スペーサ、タテ第一展望台の(湧水口ではなく)岸辺の浅瀬にクロセキレイが1羽いた。ハクセキレイは(家の近くの)長浜公園にもたくさんいるが、クロセキレイは珍しい。遠目ではっきり
スペーサ、タテクロセキレイ5クロセキレイ6クロセキレイ7クロセキレイ8クロセキレイ9クロセキレイ10クロセキレイ11クロセキレイ12クロセキレイ13クロセキレイ14
柿田川公園河津桜竹倉温泉錦昌館分からないがまだ子供のようにも見える。遊んでいるのか?獲物を探しているのか?何やら一心に、落ち葉を咥えては抛り投げている。ひとしきりクロセキレイを楽しんで、竹倉温泉錦昌館』に行く。温泉は鉱泉、食事も美味しく、いい宿だった。

三嶋大社神門(彫刻)三嶋大社神門スペーサ、タテ三嶋大社・大鳥居から総門の参道スペーサ、タテ翌日 三嶋大社へ。朝早い(930頃)駐車場はガラ空き。三嶋大社、祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)と積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)三嶋大社・舞殿と本殿スペーサ、タテ三嶋大社本殿三嶋大社本殿(彫刻)スペーサ、タテ二柱の神を総じて三嶋大明神と称す。創建の時期は不明だが、奈良・平安時代の古書にも記録が残る。三嶋神は東海随一の神格と考えられ、「三嶋」は地名ともなった。
三嶋大社の金木犀三嶋大社の金木犀ケヤキの大木(三嶋大社)紅梅白梅(三嶋大社)巨樹クス?(三嶋大社)スペーサ、タテ三嶋大社は社殿、多くは慶応二年(1866)の再建、も風格があるが 、鬱蒼とした森も素晴らしく、名木・巨木・巨樹が多い。福太郎茶屋・福太郎団子(三嶋大社)スペーサ、タテその代表は日本一の『金木犀』。樹齢はナント1200という。国指定の天然記念物である。その他は大鳥居から総門への参道の桜並木、大きな池の端にあるモッコクやケヤキの大樹、客殿前のクス?はびっくりするほどの巨樹であった。大社をあとにする前、福太郎茶屋で一休み。赤福風のアンコで包んだ抹茶味のダンゴ(福太郎団子)は素朴で上品だった。
お昼は『京丸』よりさらに港寄りの『魚がし鮨沼津港店』。さすが沼津!! 東京・横浜では味わえない値段の旨いにぎりだった。店内は、裕福な年金族だろうか?グループの高齢者でいっぱいだった。
今日(24)の目的地は鳥海だが、まだお昼を過ぎたばかり。思いつきで、湯殿山神社に寄ってみようと、月山道路から湯殿山有料道路に入る。ところが、ほどなくロープが張ってあって先に進めない。正面に人気がない大きな建物。2012年の豪雪で損傷した建物が未だ復旧せず、休業中の「湯殿山宿舎ゆどのやま」だった。また、湯殿山有料道路は11月上旬~4月下旬冬季閉鎖 月山道路の入口にそれなりの標示があればよいのに不親切、あるいは通行止めは毎年のことなので常識ということか。

とって返し羽黒山へ。いつも使わせていただいている「いでは文化記念館」に車を停め(記念館は休館日)、羽黒山神社に行く。困ったときの羽黒山?
羽黒山・神橋羽黒山須賀の滝スペーサ、タテ神橋を渡り、須賀の滝を見る。初冬の参道は小雨降る空模様にも影響されてか、参拝者は数えるほど。樹齢1000年を越えるといわれる天然記念物爺スギを拝む。そして、薄暗い杉木立の中に国宝五重塔が立っている。 五重塔から爺杉爺杉と五重塔羽黒山爺杉スペーサ、タテ千年変わらぬ風景、イヤ江戸時代まではその周囲には数多くの仏教伽藍があったが、明治政府の蛮行(廃仏毀釈)により悉くたたき壊された。日本中どこのお寺に行ってもこのような五重塔はないだろう。体内に大国主命を祀られ羽黒山に於ける“地位”は末社。彼は自分も皆とともに破壊されればよかったと思っているかもしれない。

羽黒山二の坂茶屋スペーサ、タテ羽黒山五重塔羽黒山五重塔五重塔から本格的な石段の登り。明治以降建てられたのだろう、左右に末社がいくつか並ぶ。ほぼ中ほどにある二の坂茶屋はスッポリ雪囲いされて来春を待っていた。今年もお会いした茶屋のおばあさんは来年も元気に登ってこられるだろうか? 羽黒山山頂鳥居スペーサ、タテ羽黒山三神合祭殿羽黒山三神合祭殿スペーサ、タテ
霧靄の中に赤い鳥居が現れ、羽黒山山頂に到着。隋神門から山頂の神社までは2㌔石段の数2466羽黒山参道スペーサ、タテ「三神合祭殿」は冬仕度の真っ最中。鉄骨を組終り、プラスティックパネルの取付け段階。五重塔は何の雪対策も成されていなかった。もう何年も幾度も見てきたが修理しているのを見たことがない。素木造りで風雪・風雨にはより弱い気がするが、倒壊の心配はないのだろうか?

鳥海山スペーサ、タテ翌朝(25)、鳥海温泉「湯楽里」の食堂で食事中のこと。海上をこちらに向かって十数羽のオオハクチョウが横に並んで飛んでくる。カラスやハトのようにてんでバラバラではない。ちょうど同じ高さ。ゆったりと優雅そのものの飛翔に魅せられた。彼らは「湯楽里」の前で北に向きを変え、今度はタテ一列になって視界から消えていった。宿のスタッフによれば、稲刈りが終わった田んぼへ向かったのだそうだ。カメラを部屋においてきたことが悔やまれた。

劔龍山永泉寺スペーサ、タテチェックアウトし、道の駅「鳥海ふらっと」で新鮮かつ安価な野菜を買込んでから、古刹「永泉寺」(ようせんじ)に行く。永泉寺、山号は剱龍山。慈覚大師が弘仁十四年(823)鳥海山中腹に建てた御堂(鳥海山興聖寺)が前身、永徳二年(1382)源翁和尚が再興。永泉寺と改名し曹洞宗に改宗した。『剱龍山』の由来は、 劔龍山永泉寺スペーサ、タテ
鳥海山麓に恐ろしい毒蛇が庶民を苦しめていることを耳にした慈覚大師が嵯峨絶壁の岩窟で護摩行法に勤め祈祷をしたところ、百日目に毒蛇は真っ二つになり、頭は天に飛去り尾は大師の護摩壇の下に落下した。落伏(ここの地名)はこの伝説が生んだ『尾落臥』から変じたもので、剱龍山は龍(蛇?)の尾に剣があったことから付けられた。
老杉の巨木や松の古木が生い茂り人手を最小限に抑えた庭といい、開山当時そのままの本堂をはじめとする建物といい、独特の雰囲気と情緒がある。朱赤の山門(仁王門)に至る石段(参道)はかなり長く苔に覆われている。仁王像が健在。門を入ると、眷属の狐が一対ではなく一体。妻が、例によって、御朱印を頂こうとしたが、御住職は不在だった。「石造九重層塔」を見るため裏手の山道を登る。九層塔は亀ヶ崎初代城主(志村伊豆守光安)の墳墓。永泉寺には七不思議の伝説が伝えられているが、その雰囲気からそれもうなづける。
スペーサ、タテ永泉寺本堂スペーサ、タテ永泉寺石造九重層塔スペーサ、タテ永泉寺石造九重層塔スペーサ、タテ永泉寺仁王門スペーサ、タテ永泉寺参道

箕輪鮭採捕場箕輪鮭採捕場牛渡川スペーサ、タテ永泉寺から、藤沢周平『義民が駆ける』の舞台となった玉龍寺に向かいかけたが、気が変わり、永泉寺方面へとって返し、国指定史跡丸池様」(湧水)へ。丸池様は牛渡川沿いの箕輪サケ採捕場の裏にあった。牛渡川は鮭の遡上で有名、ちょうどその時期であった。テレビではよく見るが実際を目にするのは初めて。なかなか壮観であった。
丸池丸池丸池スペーサ、タテ丸池は湧水のみを水源とする大きな池(直径20㍍/水深3㍍50㌢)。美しいエメラルドグリーンの水面に周囲の鬱蒼とした原始林がその影を映す。池底に沈んだ倒木は朽ち果つることはなく、神秘的・幽玄的な情景を醸し出している。池畔には鳥海山大物忌神社の末社、丸池神社の本殿と拝殿が建っていた。
割烹さわぐち箕輪鮭採捕場採捕場に寄りイクラを大量に買う。干し鮭(寒風干し)はまだ昨日干し始めたばかりとのことだった。
久しぶりに土門拳記念館に行くつもりだったが、昼から雨または雪という予報に、酒田市内の割烹「さわぐち」で昼定食(鮭ではないが海魚三点、豪華美味で安い)を食べ、早々に山形をあとにした。
月山道や山形道は霙混じりの雨、東北道那須高原SA前後は小雪が舞っていた。
雷鳥荘から奥大日岳スペーサ、タテ雷鳥荘を出発815。目指す奥大日岳まで4㌔、標高差は200mほどだが雷鳥沢への“大下り”(130m)がある。 新室堂乗越へ雷鳥荘から雷鳥平と別山乗越雷鳥沢キャンプ場 830。テントは数張。称名川最上流部を渡って(橋桁-浄土橋-は半分はずされ、そこは石伝い)川沿いに左折。すぐ剱御前への分岐があった。大日岳方面へ直進。木道が敷かれた小さな湿地帯を過ぎ、新室堂乗越への登りにかかる。緩やかな傾斜。 新室堂乗越の登りから白山遠望新室堂乗越から奥大日岳新室堂乗越から別山乗越スペーサ、タテ
白山が思いのほか近くに見えた。新室堂乗越(9:15-9:30)。標高2387m、雷鳥沢よりまだ低い。剱岳と思って登ってきたが、ここからはまだ見えなかった。
室堂乗越から剱岳剱岳アップスペーサ、タテ新室堂乗越から室堂乗越、間に「2390mピーク」があるがほとんど平らな稜線歩き。待望の剱岳がすこしづつ姿を見せ始めた。 室堂乗越から立山スペーサ、タテ
室堂乗越(-10:30)。これ以上は望めない青空の下、剱岳の山頂から前剱、剱御前、別山乗越と岩稜が圧倒的な迫力をもって続く(⇒山座同定)。一服剱はその背後? これほど間近に劔を眺めるのは初めてだ。 剱から右へ、別山尾根、真砂岳、立山三山(富士ノ折立・大汝山・雄山)、浄土山・・・と続く(⇒山座同定)。
室堂乗越から剱・立山(パノラマ)スペーサ、タテ
室堂乗越から剱・立山(パノラマ)
(⇒山座同定

ライチョウ3ライチョウ2ライチョウ1スペーサ、タテ室堂乗越から登りがきつくなった。突然、鈍く大きい羽音がした。ホシガラスではない。ハトやカラスにむろんあらず。注意深く歩を進める。いた 草むらの中に。ライチョウ お腹はほとんど冬毛。成鳥なみの大きさだが、この春産まれたのだろう。目にあどけなさが残っている。もう親離れをしたのだろうか? 私たちの気配を感じてか、じっと動かない。おかげで何枚も写真を撮らせてもらった。

剱岳を見ながらの稜線漫歩。2511mのピークを通過。登山道が稜線の北側につくと、凍結した箇所があった。奥大日岳山頂で会った山男氏によれば、立山は1週間前かなりの降雪があったとのこと。カガミ谷乗越(11:05)、標識に雷鳥沢から2.5㌔とある。
カガミ谷乗越~奥大日から槍穂高・薬師岳方向(パノラマ)スペーサ、タテカガミ谷乗越~奥大日から
槍穂高・薬師岳方向(パノラマ)(⇒山座同定カガミ谷乗越~奥大日から剱岳カガミ谷乗越~奥大日から中大日岳・大日岳
カガミ谷乗越~奥大日から、
中大日岳・大日岳と剱岳

奥大日岳山頂スペーサ、タテ奥大日岳の山頂(2605.9m、三角点がある)と最高点(2611m)を結ぶ“吊尾根”に上がり、左の山頂へ。右の最高点へは通行止め、見た目危険そうには見えないが。奥大日岳山頂。12ちょうど、雷鳥荘特製のお弁当を広げる。ほどなく長髪黒装束の若者が一人登ってきた。続いて若い女性、なかなかの美人、がこれも一人。長髪黒装束の連れかと思ったがそうではなかった。

カシャカシャ…シャッターの連続音を聞いて、『凄いパノラマを撮ってますね』を皮切りに会話が始まる。感じの良い青年だった。山に入ってすでに60日 5年仕事をして、5年はテントを担いで自由気儘に山歩き。今年がその最後の年だという。今回は新穂高から入山し、薬師からスゴ乗越・ザラ峠(健脚者向けのこのルート上の山小屋は今季はすでに小屋締め)などを歩いてきたという。雷鳥沢には長逗留。1週間ほど前 雪が降り、劔の頂きは真っ白になったという。その後、劔に登ったようだ。いっぽう、顔よしスタイルよしの女性も、話を聞けば、“見かけによらず”健脚。称名滝口から大日連山(マイナーかつ健脚者向けコース)を踏破したこともあるという。但し、二度と歩きたくないそうだ。奥大日岳最高点も道がありそうだから行ってみようか、などとおっしゃる。宿はみくりが池温泉。山小屋なみの料金で料亭なみの食事とか。みくりが池温泉は若い女性にとくに人気があるようだ。いつぞや雄山で会った女性も、こちらは初心者だったが、みくりが池温泉に泊まったと云っていた。私たちも今回はみくりが池温泉にしようかとも考えたが、結局 リピート、奥大日にも近い雷鳥荘にした。来季、みくりが池温泉に泊まり、剱御前から剱岳を眺めようか。剱本峰は我々にはもはや難度が高すぎる。
彼と私たちは南側に座り、北側で剱を眺めながら食事休憩していた彼女が『劔の後ろに見えるのは鹿島槍ですか?』と質問してきたのをきっかけに しばし 『山談義』。彼は経験と知識に基づき、彼女はスマホGPSの最新ツールを使い、私たちは昔ながらのコンパスと地図で。その時の結論は「劔の左は白馬・右は鹿島槍」で落ち着いた。ここからは双耳峰には見えないのかしらと、訝っていた鹿島槍は正しくは五竜だった。薬師は彼女がスマホで確認し、彼の誤認(立山三山の近くの山と思っていた)を訂正。槍穂高方向は、槍穂高以外、鷲羽・水晶・赤牛・野口五郎など、4人ともはっきりしない。水晶か赤牛とした野口五郎は彼女の判別が正しかった。
風もなくのどかな山頂を最初にあとにしたのは、三拍子揃った彼女(3つ目は感じもよし、これが一番の魅力かも)。すぐ戻ってきて、『親子みたい』といいながら三人の写真を撮ると、軽快な足取りで下りていった。次は私たち1250

奥大日岳山頂からのパノラマスペーサ、タテ奥大日岳山頂からの
パノラマ
(⇒山座同定

奥大日岳山頂から立山方向スペーサ、タテ
※※※※※※※※※※※※奥大日岳山頂から立山方向(⇒山座同定
奥大日岳山頂から槍穂高方向1スペーサ、タテ奥大日岳山頂から槍穂高方向1(⇒山座同定

スペーサ、タテ奥大日岳山頂から槍穂高方向2スペーサ、タテ
奥大日岳山頂から槍穂高方向2
(⇒山座同定
奥大日岳山頂から剱岳1スペーサ、タテ奥大日岳山頂から剱岳1(⇒山座同定

奥大日岳山頂から剱岳2スペーサ、タテ奥大日岳山頂から剱岳2

奥大日岳山頂から富山湾スペーサ、タテ
奥大日岳山頂から
富山湾

新室堂乗越~雷鳥沢から雷鳥平・室堂平スペーサ、タテ三拍子揃った彼女は最高点はパスし、じき灌木帯の中に見えなくなった。振り返ると、好感度の彼は、私たちを追い越すのを遠慮してか ゆっくりゆっくり 歩いていた。 立山上空の月雷鳥荘から別山乗越雷鳥荘から奥大日岳スペーサ、タテ
“急登”を前に雷鳥沢キャンプ場で一休憩し、340 雷鳥荘に戻り、日本一、二の高所の温泉に浸る。

ミドリ池ミクリガ池リンドウ池と雷鳥荘スペーサ、タテ翌日(22日)。朝からスッキリしない空模様は 結局 終日晴れることはなかった。一昨日(20日)は晴れてはいたが、大気は霞み、視界は
室堂山荘と立山スペーサ、タテ今一つだった。昨日の文字通りの秋晴れはたいへんラッキーな気象条件だったのである。
リンドウ池~ミクリガ池~ミドリ池と巡り、室堂発920のバスに乗る。 カモシカ1カモシカ2ケーブルカーに乗り継いで、1030 立山駅前駐車場に戻る。駐車場は満車に近い混みようだった。
🚃ケーブルカー線路脇に出てきたカモシカ。まだ子供のよう。電車好きな男の子のように、通り過ぎるケーブルカーを見つめていた。
雄山神社里宮、ケヤキ雄山神社中宮・本殿雄山神社里宮雄山神社中宮立山インターに入る前、雄山神社中宮と里宮に寄る。あとは、高速道(北陸・上越・関越・圏央・東名・保土ヶ谷バイパス・横横/並木インター)を一気走り。

奥大日岳地形図スペーサ、タテデータ 各地点の標高:雷鳥荘2400m、雷鳥沢キャンプ場2277m、新室堂乗越2387m、室堂乗越2356m、奥大日岳(三角点)2605.9m 各地点間の距離:雷鳥荘~奥大日岳4㌔、雷鳥荘~室堂ターミナル 1.2㌔
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